たった一度の負け戦が命取りとなった光秀

毛利との和平交渉はかなり進んでおりました。すでに秀吉からは、出雲や備後も引き渡すという厳しい条件が出され、それを毛利が拒否していました。しかし、秀吉から備中の高梁川と伯耆の日野川を結ぶ線、つまり、備中や伯耆は半国ずつ、ただし、高松城主清水宗治の切腹は譲れない、という最終提案を出していたわけで、それほど不自然ではなかったのでございます。

それに毛利は、九州の大友宗麟が信長さまとよしみを通じたので背後を脅かされていました。母親が周防山口を本拠としていた大内氏出身の宗麟さまは、形式的には大内家の家督を相続しておられました。その宗麟さまに、信長さまは周防と長門は大友に渡すと約束されていたのです。

そんなことで、毛利家も今度こそ危ないと憂慮が広まっていました。土豪たちはサボタージュしてあまり兵員をそろえてくれなかったので、秀吉の和平提案に何か裏があるのかといったことを疑う余裕すらなかったのでございます。

その年に甲斐の武田家が惨めな滅亡をしただけに、毛利だけでなく上杉なども浮き足だっておりましたし、のちに、本能寺での変事を聞いたあとも、せっかくの好条件での和平を投げ捨てて追撃しようという冒険心も萎えていました。

清水宗治の切腹は、毛利方の安国寺恵瓊が活躍して承知させてくれました。いずれにせよ、6月4日の午前中には清水宗治が湖面に浮かべた小舟の上で「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」という辞世の句を残し、能の「誓願寺」を舞う美しい儀式のあと切腹し、重臣たちも殉死いたしました。

▲妙玄寺 清水宗治自刃の地に建つ供養塔 出典:PIXTA

毛利軍は6月5日には撤退し、それを見届けてから羽柴軍も備前の沼城に入り、6日にはちょっと頑張って姫路城まで一気に走って着いております。

そして、全軍がそろい休養を十分にとってから9日に姫路を出ました。「山崎の戦い」は13日ですから、無駄のない動きですが、そんな無理な行程ではございません。しかも秀吉は、信長さまは生きているというデマを流したり、中川清秀さまや高山右近さまの摂津勢や、信孝さまや丹羽長秀さまの四国遠征軍も吸収して勝利を得たのでございます。

ただ、明智軍についた方が少なかったというのは誇張だと思います。あとで紹介いたしますが、京極高次とか武田元明といった近江衆や、若狭衆のかなりは明智軍に加勢しています。丹羽長秀さまや信孝さまの四国遠征軍は、各地の大名から兵を借りての混成軍でしたから、ほとんどの兵に逃げられてしまい身動きがとれなかったほどでございます。

そして、細川忠興や筒井順慶のような明智与力の大名も、明智に呼応はしなかったものの、秀吉に味方したと云うほどではありません。様子を見ているうちに秀吉が帰ってきたので動かなかった、というだけなのでございます。やはり、秀吉の中国大返しが見事だったことが、光秀さまにとっては不運だったと思います。

もし、秀吉があんなに早く戻ってこなかったら、たった一度の戦いに負けただけで滅びることはなかったでしょう。また、大阪で孤立していた信孝さまや丹羽さまなどは、明智方に滅ぼされていたかも知れません。

※ 清水宗治の自己犠牲はおおいに評価され、子どもたちは長州藩重臣となり、子孫は幕末維新の功績で男爵となった。

※ 本能寺の変のとき、細川藤孝・忠興父子は信長の喪に服すとして剃髪した。ただし、秀吉側について参戦したわけでない。当時、丹後の南半分は藤孝、北半分は旧守護の一色義定(藤孝の娘婿)が領していた。一色氏は明智方に味方したので、にらみ合っていたが、どっちに転んでも良いようにしただけのようにも見える。その後、一色義定は藤孝・忠興にだまし討ちにあって殺された。

※ 筒井順慶は事件の直後には明智方に立って近江や山城に兵を送り、洞ヶ峠方面(京都府八幡市と大阪府枚方市の境界)に進出したが、秀吉の動きを見て大和の郡山城に籠もった。光秀は洞ヶ峠方面まで南下して圧力をかけたが、秀吉軍の接近で陣を引いて京都市南部の下鳥羽方面に移動した。順慶が眺望のきく洞ヶ峠に布陣してコウモリを決め込んだというのは事実でない。