未曾有の苦難を乗り越えた、先人(日本人)の知恵を世界史の中から学びとる! 憲政史研究家の倉山満氏が伝える歴史のリアル。人口の面でも土地の面でも、人類の過半数を征服したチンギス・ハーン。そして迫りくるモンゴル軍に決断を迫られる鎌倉幕府。いつだって世界は残酷、たくましく生きるべき!
※本記事は、倉山満:著『若者に伝えたい 英雄たちの世界史』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
モンゴル高原を統一したテムジン
戦いに明け暮れたチンギス・ハーンは意外と長生きでした。長生きしたからこそ、一代でモンゴル帝国が築けたのでしょう。
チンギス・ハーンの生年には1154年、1155年、1162年の3つの説があり、確定されてはいません。いずれにしても、亡くなったのは1227年と分かっているので65歳以上にはなっていたはずです。
チンギス・ハーンは遊牧騎馬民の1部族の子供として生まれ、子供のときから馬に乗れなければ生活できない暮らしの中で育ちます。遊牧騎馬民は羊を育て、川の水を求めて集団で移動する人たちです。部族間でケンカや仲直りを繰り返しています。
はっきり言えば、動物のように原始的な習性をかなり残している人たちです。原始的なだけに、戦いに優れ軍事力が強いのが特徴です。ただし、暴力をこれでもかとふるうので「攻め入られたところは草木も残らない」といわれるも彼らの一面です。
チンギス・ハーンが、まだテムジンと名乗っていた若いころには、懐妊していた妻を敵対部族に奪われたり、記録に残る最初の戦いでは負けを喫したりと苦杯も舐めました。
テムジンは敵対部族を滅ぼし周辺部族を併合していき、1203年に北モンゴルで最有力のケレイト部族長のオン・ハーンを破り、モンゴル高原を統一します。テムジンは「ハーン」に選ばれ、チンギス・ハーンを名乗り、即位したのが1206年です。ハーンとは、部族の最高指導者の名称です。
モンゴル軍の最初の一手は「通商使節の派遣」
チンギス・ハーンのモンゴル軍が向かった先は、基本的に西と南でした。西夏王国を降伏させ、ウイグル王国を寝返らせ、満洲人の金王朝を徹底的に圧迫していきます。そして1218年、イランの地にあったホラズム・シャー朝に、まずは通商使節を送りました。
ホラズム・シャー朝は、時の君主と実の母后の折り合いが悪く、国を挙げてモンゴルに立ち向かうことができません。なぜなら、軍の多数が君主の命令を聞かず、自分たちと同じ部族出身の母后の命令にしか従わなかったからです。
まず通商使節を送り込んでくるのが、モンゴルの征服の最初の一手です。そのとき、通商使節を受け入れず抵抗した都市は見せしめに破壊され、受け入れたなら受け入れたで、モンゴルは交流しつつスパイを送り込んできます。そして、いつしか相手方の政府にまで浸透し、政府内部に裏切り者を作り、自己勢力を扶植してから最後に軍事侵攻するのが常套手段でした。
このやり方は、20世紀にソビエト連邦のスターリンが、コミンテルンを先兵として送り込み、間接侵略でその国を骨抜きにしてから、直接侵略した手口を彷彿とさせます。チンギス・ハーンはいわば、スターリンやコミンテルンの元祖なのです。スターリンがチンギス・ハーンに学んだという記録は寡聞にして知りませんが。