香港での「逃亡犯条例」問題がクローズアップされたことで、中国共産党による人権侵害について関心が日本でも高まってきました。米中の香港をめぐる争いは、いきなり激しいバトルを繰り広げるようになったというイメージが強いですが、20年ほど前からあった“火種”についてチャンネルくららでも人気の内藤陽介氏が解説します。
※本記事は、内藤陽介著『世界はいつでも不安定 国際ニュースの正しい読み方』(ワニブックス刊)より、一部を抜粋編集したものです。
関心が高まってきた香港問題
中華人民共和国という国が、中国共産党の一党独裁体制下の人権抑圧体制になっていることは周知の通りです。これまでにも、チベットやウイグルでの人権侵害は全世界的に問題になってきたわけですが、残念ながら、日本では世論の関心があまり高くはありませんでした。
もちろん、その背景には日本の大手メディアが、日中記者協定の“制約”(=中国に不利なことを報道すると取材に支障が出る)のため、中国側に配慮して中国のタブーには触れてこなかったということが大きな要因としてあります。しかし、やはり多くの日本人にとってチベットやウイグルは、どこか“遠い国”というイメージがあって、関心を持ちづらかったことも事実です。
こうした状況が2019年6月以降、香港でいわゆる「逃亡犯条例」問題がクローズアップされたこと、特に日本でも人気のある周庭のような若い女性の民主活動家が弾圧されている実態を多くの日本人が知ったことで、ちょっと事情が変わってきたように思えます。香港問題を入り口にして、中国共産党によるチベットやウイグルの人権侵害への関心も徐々に高まってきたというわけです。
近年なにかとニュースで取り上げられることの多い香港ですが、日々のニュースを追っているだけでは、なんとなく大変なことが起きていることはわかっても、どういう経緯でその問題が起こっているのかが、いまひとつわかりづらいだろうと思います。
特にアメリカと中国との関係で見た場合、日本ではトランプ政権の登場以降、いきなり米中が香港をめぐって激しいバトルを繰り広げるようになった、というイメージで捉えている人も多いようですが、実はその“火種”はずっと前からありました。
一般的な報道では、現在香港で起きているさまざまな出来事につながる歴史的な経緯の説明が、すっぽり抜けてしまっているのです。
あえて香港を“解放”しなかった中国の狙い
現在の香港の“起点”として、1984年12月に「香港問題に関する英中共同宣言(英中共同宣言)」が結ばれたところから話を始めましょう。
行政上の「香港」というのは、アヘン戦争の結果、1842年の南京条約でイギリスに割譲された香港島と、1865年の北京条約で割譲された九龍市街地、1898年の展拓香港界址専条でイギリスに99年間の期限で租借された新界地域、この3つの部分から成り立っていました。
理論上「返還」が問題となるのは新界地区のみですが、3つの地区は密接に結びついていて、切り離すことは不可能というのが実情でした。香港の「返還」問題が現実の政治課題として浮上してきたのは、1970年代末以降のことです。
当時の香港では、住宅ローンの最長貸付期間が15年間だったので、1982年7月以降の住宅ローンは1997年の返還後にまたがる契約となる可能性がありました。ということはつまり、返還後の具体的な見通しが立たない状況では、新規の契約が成立しづらい状況になっていたわけです。
そこで1979年3月に、イギリスの香港総督マクルホースが、北京を公式訪問して鄧小平と会談し、1997年に迫った新界租借期限の延長を申し出ます。
これに対して、鄧小平は1997年を越える契約については何も言わず、今後の方向について「中国は新界だけでなく香港全体を必ず取り返すが、香港の現状は維持する」と述べただけでした。また、このときには「香港の投資家は安心してもよい」と発言したものの、“返還”についての具体的な提案は何もしていません。
1949年10月1日に、天安門広場で中華人民共和国の建国式典が行われ、毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した時点では、蔣介石の国民政府が依然として華南三省と西南部三省の大半を支配していました。
香港に隣接する廣州が陥落するのは10月14日のことですが、人民解放軍が余勢をかって英領香港に攻め込んでいたら、おそらく香港もすぐに陥落していたでしょう。
しかし、人民解放軍は国境で進軍を停止。あえて香港を武力で“解放”せず、英領植民地のまま現状維持するという選択をしました。
なぜでしょうか。
当時は東西冷戦の時代ですから、西側による中国(共産勢力)の封じ込めが予想されます。そこで、そのための“保険”として香港を英領のまま残しておくことで、西側に対する窓口を確保し、日本の江戸時代の長崎の「出島」同様、香港からカネやモノ、情報などのさまざまな“実利”を得ようとしたわけです。
そのためには香港租借地の主権が中国側にある、という建前は最大限尊重されることが大前提となっていました。
逆に言えば、香港租借地の主権が中国にあることさえ確認されていれば、“英領香港(租借地の新界+九龍市街地+香港島)”に経済的な富と情報が集中し、その一部を確実に吸い上げることができます。
香港がイギリスの植民地であることで、“金の卵を産むガチョウ”でいてくれるなら、わざわざ自分たちで香港を直接支配する必要はない、というのが当時の中国共産党の発想でした(これはあくまでも、香港の経済力が中国本土を圧倒していた時代ならではの事情によるものですが)。