「ぼくは、ひねくれた人間です。」という告白から始まる、「無駄は悪だ!」というトレンドへのささやかな反抗。作家・五木寛之さんの新作『捨てない生きかた』はそんな素敵な一冊です。不要不急なモノ・コトが無視され、存在価値を否定されていく世の中にあって、「『捨てない生きかた』も捨てたもんじゃないよ」と微笑みを浮かべる作家のつぶやきは、風のように私たちの心に届きます。
※本記事は、五木寛之:著『捨てない生きかた』(マガジンハウス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
コロナで断捨離ブームが再燃
最近、いわゆる「断捨離ブーム」が再燃したような気がします。暮らしの簡素化がいろいろなところで盛んに叫ばれているのは、コロナの影響かもしれません。
ステイホームで不要不急の外出はしない。人と会わない。身のまわりを飾る必要もなくなってシンプルな生活が日常化すれば、モノに囲まれたいままでの暮らしが滑稽にさえ感じられてくるのかもしれません。
ぼくは、ひねくれた人間です。流行に逆らうことにひそかな生き甲斐を感じてきたようなところがあります。表面的には時流に追従しているふりをして、心のなかではそれを演じている自分を面白がっている、そんなねじれた子どもでした。
今もその性格のねじれは、改まるどころか年とともに強まってきたらしい。「不要不急」という表現に、おや、と思うのです。
必要を満たすだけで、人は生きていけるのでしょうか。
そもそもこの地球において、私たち人間こそが「不要不急」な存在なのではないか――。
しかし、不要不急な人間にも生きる意味があるとすれば、不要不急なモノたちにも断捨離されない理由があるはずです。
ジョルジオ・アルマーニというたいへん有名なイタリアのファッションデザイナーがいます。1934年生まれです。彼のインタビューが2021年6月の読売新聞に載っていました。
今回のコロナ禍について、アルマーニ氏は「あらゆるもののスピードを落として、配置転換する機会になると思う」と述べています。
そして、ファッション業界は立ち止まって考える時期にきており、移り変わる流行に翻弄されないものをつくる必要がある、いつも着ていて長持ちするものをつくること、それがファッション業界がとるべき持続可能な道なのだ――と。
大量に衣服を買い込んで短期間だけ着て捨ててしまう時代ではない、という意見にはぼくも賛成です。「多くを入手して、多くを捨てる」という方法は、けっして持続可能なライフスタイルではありません。
「アルマーニ」は上級国民御用達と思われているようなファッションブランドです。そんな高級ブランドの総帥が、時代を見つめながら語る言葉が、ぼくにはとても新鮮に聞こえました。
浄土教は「捨てる」ことを出発点とした
中世、法然を源流とする日本の浄土教は「捨てる」ことを出発点としました。当時の最高学府であった比叡山で飛びぬけた秀才であった法然は、やがて山を降りて世俗の巷に身を投じます。彼は「余計な知識を捨てろ、赤子のように無心に念仏ひと筋に帰せ」と語り、その思想は親鸞、一遍に引き継がれました。
親鸞も比叡山を中退した人です。日蓮も道元も出世コースを捨てました。究極は遊行僧の一遍で、「捨聖」と呼ばれていました。
中世には、世を捨てて簡素な生活に身を投じる、隠遁と呼ばれるライフスタイルが文人や貴族のあいだで流行しました。捨てようにも捨てられないしがらみのなかで生きる人々は「捨てる生きかた」に憧れ、鴨長明など多くの隠遁スターが生まれました。
そうした東洋的な思想とかすかにつながっているところから、現代の「断捨離」が欧米でも注目を集めたのでしょう。モノたちに感謝し合掌して捨てる、といったアイデアも新鮮だったと思います。
ぼく自身、「捨てる生きかた」に憧れを抱いてきたひとりでした。ですが、戦後のモノ不足のなかで育ち、ぎりぎりのアルバイト生活で青年期を過ごし、いつのまにかモノに囲まれて暮らすようになっていました。
九州から上京して大学に入った当初は、泊まる部屋さえありませんでした。今でいうホームレス生活です。「捨てる」どころか、「拾う」ものはないかとキョロキョロしていたのです。
「捨てない生きかた」も悪くない――。
手に入れるのに苦労したとしても、たやすく手に入ったとしても、今そこにあるモノには、手に入れたときの感情と風景、そして数年、数十年とともに時を過ごしてきた〈記憶〉が宿っています。
捨てるな、とはけっして言いません。しかし、モノをどうしても捨てられない気持ち、そして、モノを捨てない生きかたということには、素敵な道理がちゃんとあるということを知っておいていただきたいのです。