世界最大最強の国と二度目の戦い(弘安の役)

使者たちは一旦、太宰府に移されてから鎌倉に送られ、鎌倉に着いて約1週間後に処刑されます。この時の使者が斬られた事実が元に伝わったのは、ほぼ5年後です。

1279年、前回の使者が斬られたのを知らないままに、次の使者が到着しました。使者はやはり斬られます。

北条時宗は、文永の役が起きるまでは使者が何回来ようとも、元軍が攻めてくるかどうかは分からないので使者をそのまま返しています。人道的措置です。

ところが、文永の役を経てからは、やってきた使者を斬ります。絶対に元の言いなりにならないと宣言したのです。もし負ければ、日本人はモンゴルの奴隷です。一丸となって戦って勝つしかありません。

時宗は、戦時体制を敷きます。なかでも重要なのは石塁の築造です。モンゴル軍を上陸させないためでした。この時の石塁は今も残っていて「元寇防塁」と呼ばれています。

▲元寇防塁

1281年、日本側の挙国一致戦時体制が続く中、弘安の役が起こります。やってきたモンゴル軍は、フビライが征服した南宋の兵も加わった大軍でした。

今回は上陸させまいと夜襲を毎日のようにかけ、眠らせないようにするなど粘りに粘った戦いで、モンゴル軍が停滞します。そこへ台風がきて、モンゴル軍の船は次々と沈んでいきました。さらに、逃げるモンゴル兵を追撃していき、追い返しました。完勝です。

先の文永の役が水際撃滅だとすれば、弘安の役は艦隊決戦で完勝したといっていいでしょう。これを「神風が吹いたから勝った」と言い張る人がいますが、違います。台風が来るまで戦い抜いたのです。戦いにおいて、天候は風任せでは勝てません。自らの意思で天候を利用するものなのです。

若くして過労死した北条時宗

当時、世界最大最強の国に日本は勝ちました。

余談めきますが、これがヨーロッパ人であれば、この勝利をもって自分たちが世界の中心だったと喧伝するに決まっています。現にペルシャ戦争がそうです。ヨーロッパがペルシャに勝ったのは、ほぼまぐれ当たりです。しかもペルシャのほうが文明人で、自分たちのほうがよほど野蛮人だったのにもかかわらず、いまだに『300〈スリーハンドレッド〉』(2006年)のような映画を作っては、ペルシャは野蛮だったと吹聴しています。

▲古戦場跡の亀山上皇の銅像(福岡市博多区)

それに比べると現代日本では、北条時宗に関してはNHK大河ドラマ『北条時宗』や、漫画家さいとう・たかをの『北条時宗』があるくらいです。日本人の北条時宗に対する評価は、不当に低いと言わざるを得ません。

フビライ・ハーンは3度目の日本侵攻を計画していました。1284年、またもやフビライ・ハーンの国書を持った使者が対馬に到着しますが、船員の反乱によって使者は殺されてしまいました。

北条時宗は弘安の役後、3度目の元寇に備えながらも、1284年に34歳で短い生涯を閉じました。過労死です。

1286年、元は日本遠征を中止し、1294年にフビライ・ハーンが没します。

その後の鎌倉幕府は、慢性的な戦時体制でしたが、やがて疲れて警戒を解きます。こういう時は緊張感が一挙になくなります。武勇を誇った鎌倉幕府も1333年に滅び、やがて足利尊氏を初代将軍とする室町幕府が開かれることとなります。