不要不急なモノ・コトが否定され、合理的意味のあるコト・合理的な価値のあるモノしか、持っていてはいけないのでしょうか。文化や経済が豊かになった日本で、そんな圧迫感が人々の心を覆っているではないかと、作家の五木寛之氏は指摘しています。寝るスペースもないくらい好きなモノに囲まれた自室で、深夜見上げる天井には、意外にも銀河が流れているのかもしれないのです――。
※本記事は、五木寛之:著『捨てない生きかた』(マガジンハウス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
現代人が抱えている共通の悩み「モノが増える」
私たちの身のまわりには、いろんなモノがあります。高価なモノもあれば、安価なモノもある。役に立つモノもあれば、不必要としか思えないモノもあります。
モノが身のまわりにどんどん増えていって始末に負えないというのは、私たち現代人が抱えている共通の悩みだと思います。
ここ10年ほどで、「終活」ということがよく言われるようになりました。「生前整理」という言葉も一般的に使われています。人生の後半期を生きる人たちは、そういったことに自然に敏感になっていくのでしょう。
しかし最近は、若い人たちもまた一種のプレッシャーを強く感じているようです。身のまわりをスッキリさせなければいけない、という圧迫感。生活情報を扱う雑誌やテレビ番組が、シンプルライフの話題を盛んに特集するのはそのためでしょう。
以前、近藤麻理恵さんという方の「こんまりメソッド」という片づけ術が大きな話題となりましたが、その後、日本ばかりでなくアメリカに進出して、海外で一大ブームになっているという。ぼくも彼女の番組を見たことがあります。アメリカの家庭を訪問して片づけ術を伝授していくという、興味ぶかいリアリティ番組でした。
それほど長い歴史をもっているわけではない、合理性第一のように見えるアメリカという国の人たちでさえ、家の中ではモノが山のように溜まっていき、そのことについてすごいプレッシャーを感じているようです。
非常に日本的な「感謝しながら捨てよう」というシンプルなメッセージに共感が集まり、大きな話題になったりする時代を象徴するようなブームでした。
じつはこんなところに、現在の、世界の文化的な生活というものの“ひずみ”が表れている、と言えるかもしれません。
現代社会は、いわゆる富裕層と貧困層に人々が分かれ、大きな格差が生じているとよく言われます。モノが余って処理できない人たちもいるし、モノが足りなくて困っている人たちも大勢います。
世界規模からいえば、すべての人たちが身のまわりにモノがあふれ、モノに過剰に取り囲まれてアップアップしているわけではありません。
とりわけ、世界のなかで文化や経済などが豊かな国や場所で、とくにそういう現象、身のまわりをスッキリさせなければいけない、という圧迫感が生じているような気がするのです。
シンプルライフに感じる「空虚さ」
ワンルームという言葉に象徴されるように、都会で暮らしている若い人たちは、とても狭い空間のなかで生きています。部屋にはできるだけ何も置かず、服をしまうクローゼットも必要とせず、壁際にズボン1本とシャツを2枚だけ吊るしておけばそれでいい、という人もけっこういるようです。
ぼくは、それはそれで潔い生きかただと思います。シンプルな生活を否定することはしません。ですが、やはりそういう暮らしぶりというのは、ときにとても空虚な感じがするのではないか。
体を横たえる場所もないくらいにモノがあふれている部屋、それもまた味わい深いものではないでしょうか。
世代によって違いますけれども、昔のヒーローもののグッズだったり、ほかのものだったり、いろんなモノに囲まれている。ゴミ屋敷というと言い過ぎになりますが、そういうなかで、日々万年床で寝るような暮らしも、それはそれでひとつの豊かな精神世界ではないか、という感じがするのです。
地方の、過疎化したと言われるような村へ行くと、土蔵のある家をよく見かけます。そういう土蔵には、明治時代よりもっと古い、江戸時代やその前の時代からの骨董品が仕舞い込まれています。
福岡のぼくの親戚の家にも土蔵があります。昭和22年に朝鮮半島から引き揚げてきて、親戚の住む村で暮らしたときには、その土蔵の中に勝手に潜り込んだものでした。
古い雑誌をはじめ、読むものもたくさん仕舞い込まれていたので、こっそり潜り込んで探索しました。アドベンチャーに挑んでいるようで、うれしく、胸の躍る思いをしたことを覚えています。
都会のワンルームにしても地方の村の土蔵にしても、そういうところに山ほど詰まっているのは、確かに不要不急のモノたちかもしれません。
そして、そういうものを全部捨て、合理的に暮らすことが、文明化と呼ばれ、近代化と呼ばれてきたように思います。
しかし、コロナ禍によって私たちは新たな経験をしました。
まだ終わったわけではありませんし、歴史的な事実になったわけでもないのですが、ひょっとしたらこれが新しい時代、〈捨てない生きかた〉の始まりのような気がしてならないのです。