完全無欠のエース・ジャンボ鶴田に迫る。元『週刊ゴング』編集長の小佐野景浩氏が、“鶴龍コンビ”“鶴龍対決”で一世を風靡した、あのレジェンドに聞いた。
プライベートも共有した鶴龍の青春
早いもので、ジャンボ鶴田が2000年5月13日に急逝してから間もなく20年となる。ワニブックスから上梓する『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』は、まさにその日である5月13日の発売となる。
この本の執筆あたり、私は過去の記事の掘り起こしだけではなく、レスラー、関係者、同級生など、あらたな取材を3年にわたっておこなった。今週からは、その声を読者に皆さんに紹介していこうと思う。
「ジャンボ鶴田がライバル? いや、ライバルと言うにはジャンボのほうが勝ちすぎていたよ。だから俺からライバルって言うと口幅(くちはば)ったい。戦友がピッタリ来るのかな。全日本プロレスで一緒に戦っている時には、仲間という気持ちもあったから“お互いに生き抜こう”って思ったし、何かがあると“生き延びてほしい”“あいつが頑張ってるんだから、俺も頑張ろう”って思ったしね。もしライバルだと言えるとしたら……俺が全日本を辞めて別れてからのほうがライバルだったね。全日本にいた時は戦友だったけど、別れたあとは“生き様でジャンボに負けたくない!”って意識してたよ」
そう語るのは天龍源一郎だ。
そこにはさまざまな感情が含まれている。ひとことで言い表すことができないのが、鶴田と天龍の関係だ。
大相撲で前頭筆頭までなった天龍がプロレス転向を決意した時、その背中を押したのは1976年6月11日の蔵前国技館におけるテリー・ファンクと鶴田のNWA世界ヘビー級戦だった。
馬場元子夫人に誘われて2階席からナマ観戦した天龍は、相撲にはない華やかさ、制約の多い相撲とは違う自由な空気を感じたのだ。
「ジャイアント馬場という人がいなかったら、プロレスラーになっていなかっただろうと思うけど、最初にジャンボ鶴田に会ってなかったら続けていなかったかもしれないね」とも天龍は語る。
同年10月15日に全日本に入団した天龍は、2日後の新潟県三条から巡業に合流。だが巡業バスに乗り込んだ時、席が決まっていないから困ってしまった。
その時に「天龍選手、とりあえずこっちに座りなよ」と気さくに声を掛けて、奥の席に座らせてくれたのが鶴田だった。
そして会場に着くまでの間、普通の若者のように芸能界やスポーツの話をしたり、鶴田も中学時代に朝日山部屋に入門しかけたこともあるだけに相撲の話で盛り上がったという。
「最初に声を掛けてくれたし、朝日山部屋に入りかけたっていう話を聞いて急に親近感が湧いたし、“いい、あんちゃんだな”って(笑)。もし“元関取でもそうはいかない!”みたいな態度を取られたら、北向き〔相撲用語でひねくれもの〕の天龍はプロレスへの取り組み方が違っていたかもしれないけど、おかげでスッと入ることができた。それはやっぱりジャンボが“プロレスはそんなに難しいもんじゃないんだよ”っていうような感じで、難しいところを易しく見せてくれていたからかもしれないね。ことさら“そんな甘い社会じゃない!”とか言う奴が多い中で、“大丈夫だよ、源ちゃん”って接してくれたのがジャンボだったよ。実際は大変だったんだけどね(苦笑)」<天龍>