プロレス界の完全無欠のエース・ジャンボ鶴田。没後20年を迎えた今でも根強い“日本人レスラー最強説”と権力に背を向けたその人間像に、元『週刊ゴング』編集長の小佐野景浩氏が初めて迫る!

少年時代にあった強さの源

三冠王者として活躍した時代はまさに無双状態だった

私のTwitter(@osano2)で、「5月13日に『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』をワニブックスから上梓する」と告知したら、プロレスファンのSNS関係がザワついた。

私にとっては嬉しい反響がほとんどだったが、その一方でジャンボ鶴田というプロレスラーにはアンチも多く(そこがまた魅力なのだが)、「最強」と謳ったことに過敏に反応するファンもいたのである。しかし、そこはご心配なく。この本は「ジャンボ鶴田は最強だ!」と礼賛(らいさん)するものではないからだ。

ジャンボ鶴田最強論は根強いものがあるが、「強い」「無尽蔵のスタミナ」「天才」という鶴田を称賛する言葉には、私自身も飽き飽きしている。だから何が凄かったのか? その強さはどこにあったのか? そして「最強」と言われても「最高」と言われないのはなぜなのか? そうした難問を解き明かすことが、この本のテーマである。

2017年4月、ワニブックスの岩尾雅彦氏から最初に話をいただいた時には、「天龍革命、超世代軍との戦いで怪物と呼ばれた5年間」がテーマだった。1987年6月から90年4月までの鶴龍対決、そこから92年11月にB型肝炎を発症して第一線を退くまでの超世代軍との戦いは、まさに鶴田の全盛期だった。

その全盛期を知るには、鶴田の中の「怪物」が覚醒するまえの時代を知る必要がある。そこで、私はまず鶴田の故郷の山梨県山梨市牧丘町倉科の実家を訪れ、実兄の鶴田恒良(つねよし)氏に話を伺った。さらに恒良氏の紹介で、山梨県立日川高校のバスケットボール部で鶴田と一緒に汗を流した同級生の池田実(みのる)氏にも話を伺うことができた。

鶴田の生い立ちを知っているファンの方は多いと思う。当然、私も知っていた。ところが兄、同級生の話を聞いてみると、これまでのストーリーとは違う事実、違う鶴田少年が浮かんできた。その高校卒業までのストーリーを収めたのが第1章だ。

高校時代はバスケットボールでインターハイに出場した

彼はなぜ“善戦マン”と揶揄されたのか?

第2章は大学時代……つまりレスリングを始め、72年のミュンヘン五輪にグレコローマン100㎏以上級として出場し、アマチュアを引退するまでの時代。バスケットボールを辞めて自衛隊体育学校でレスリングを始め、そして中央大学レスリング部に入るという過程も、今まで語られていたこととはかなり違うことがわかった。

この章では中大レスリング部主将として鶴田を受け入れた鎌田誠(かまだまこと)氏、鶴田が一度も勝てなかった磯貝頼秀(いそがいよりひで)氏にじっくりと話を伺っている。

栄光のミュンヘン五輪出場。誇らしい表情が印象的だ

そして、いよいよ全日本プロレス入門。その前に繰り広げられた他団体や相撲界との争奪戦、鶴田のプロレス入りの真意、馬場のアマレス四銃士計画などに切り込んだ。そしてテキサス州アマリロでのドリー・ファンク・ジュニアの英才教育はどんなものだったのか? 実際にアマリロでどんなポジションでどんな試合をしていたのか?

第3章は全日本入団の経緯を知る関係者、コーチ役のドリー、テリー・ファンク、切磋琢磨したスタン・ハンセンの証言をもとに構成した。

若かりし日のジャンボ鶴田とスタン・ハンセン。貴重な1枚だ。

第4章は、1973年10月に日本デビューを果たした後の「驚異の新人」として注目を浴びた時代(ちなみにデビュー2年目のシングルマッチの勝率は90.9%)、第5章はジャイアント馬場との初対決や『試練の十番勝負』、UNヘビー級王者になった若大将時代にスポットを当てた。改めて検証すると、この時代のジャンボ鶴田は、まさに天才と言うしかない。

しかし、第6章では若大将から一転して「善戦マン」と呼ばれた時代を掘り下げた。なぜ人気が出なかったのか? 何が足りなかったのか? 同世代のライバルとなったキム・ドク=タイガー戸口などの厳しい鶴田評、馬場との間に亀裂が入った77年のクーデター事件、馬場に退陣を迫って鶴田をトップに据えようとした全日本・松根新体制、他団体からの引き抜き工作なども追及している。

ある意味、この本のひとつのヤマ場は、この第6章かもしれない

鶴田と激しくしのぎを削ったタイガー戸口の証言には重みがある