
ドイツのことは知り尽くしたと思っていた。しかし、旧東ドイツの都市ライプツィヒに移り住み、その考えは覆されたという。街に溶け込む歴史と文化、そして人々の静かな誇り。ドイツ在住の作家・川口マーン惠美氏が見つめた、旧東ドイツに残る“ドイツらしさ”とは何か。
※本記事は、川口マーン惠美×ヴィズマーラ恵子:著『誠実な日本人が信じるドイツ神話にイタリア幻想 -戦後81年目の答え合わせ-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

「本物のドイツ文化」は旧東ドイツに残っていた
もともと、神聖ローマ帝国というのはローマという名前が付いていますが、ドイツ人の帝国です。ドイツは長らく300以上の領邦に分かれていましたが、なぜ、そんなことになったかというと、神聖ローマ帝国の皇帝がイタリア経営にうつつを抜かし、本国であるドイツを放ったらかしにしたため、それぞれの領主が「自分たちの領土は自分たちで守らねば」と思ったからです。これにより、13世紀頃に300もの有象無象(うぞうむぞう)の国ができてしまった。
その後、30年戦争でドイツは徹底的に疲弊しますが、1648年、その後始末をしたウェストファリア条約で、こともあろうに、それら300あまりの国の完全な主権が認められた。つまり、外交権や宣戦布告権まで持った300もの国が、バラバラな状態で存在するという困った状態が固定化されてしまったのです。
この時、最大だったのがハプスブルク家の支配するオーストリア帝国と、プロイセン王国でした。
その後、フランス軍がオーストリアやプロイセンを破ると、ナポレオンの介入でドイツの小国は何度かのステップを踏みながらどんどん整理されていきます。これが19世紀初頭のこと。そして、ナポレオン失脚後の「ウィーン会議」で、ドイツは最終的に39カ国にまで整理されました。
これがドイツ帝国として統一されたのは1871年と非常に遅かった。この時、この中の最大国であったオーストリアが排除され、プロイセン主導のドイツ帝国ができ上がったわけです。そして、第二次世界大戦後、ドイツは連邦制となり、東西ドイツ分裂を経て、現在、再び一つの国となっているのです。
ただ、同じ言葉を喋っていたとはいえ、もともと違った国であったこともあり、ドイツには地方の特色が色濃く残っています。特に、ほぼ40年間、世界と遮断されていた旧東独地方では、いまだに往年のドイツらしさがほのかに残っているように感じます。
私はシュトゥットガルトに37年住み、その後、ライプツィヒに引っ越しましたが、シュトゥットガルトは典型的な旧西ドイツの都市で、ライプツィヒは典型的な旧東ドイツの都市です。
ライプツィヒに住み始めて強く感じたのは、これまでドイツのことは何でもひと通り知った気でいたのが大間違いだったということ。それどころか、本物のドイツ文化は旧東ドイツにこそあると気づき、愕然としました。ライプツィヒに引っ越して、それに気づけたことは本当によかったと思っています。
しかもライプツィヒは、学問、商業、芸術、特に音楽文化など、すべての分野にわたって、かつてヨーロッパ有数の繁栄を誇った都市です。その面影が、今でも街の至るところに残っています。
街の中心には、ヨハン・セバスティアン・バッハが25年間にわたって音楽監督を務めた聖トーマス教会があり、現在も日常的に礼拝や演奏会が行われています。何気なく通りすぎようとした建物に「クララ・シューマン生家」と書かれたプレートが掲げられているなど、歴史的な人物の存在がごく自然に街に溶け込んでいるのです。

また、ライプツィヒ大学には、哲学者ライプニッツや、ゲーテ、レッシングといった、この地にゆかりのある知識人たちの胸像が並んでいます。さらに、市内には見本市の展示場として使われた「パッサージュ」と呼ばれるアーケード街が今も残されており、かつて商業都市として栄えた時代の雰囲気を感じさせます。
ライプツィヒは音楽の街としても知られていますが、実際にコンサートへ足を運ぶと、シュトゥットガルトとはまったく異なる空気が流れている。ちゃんと正装した年配のご夫婦などを見ていると、「東独時代から私たちはずっとここに通っているのですよ」という雰囲気が伝わってきます。
ライプツィヒで見えた東ドイツ地域の静かな誇り
旧東ドイツ時代、この地域は西側に比べて娯楽も限られていました。その中で、人々は音楽や文化を大切に守り続け、それが今も受け継がれている。ライプツィヒのコンサートホールは、社交やステータスのためではなく、純粋に音楽を聴く人々が静かに集まってくる場所なのだと気づいて、私は感動さえ覚えました。シュトゥットガルトで触れてきた文化が「デジタル」だとすれば、ライプツィヒには「アナログ」のような、人間の息遣いが残っています。
東独時代には老朽化していたであろう歴史的建築物も、現在では丁寧に修復され、街全体が重厚な存在感を放っています。そして、その建物や街並みには、何世紀にもわたる歴史が静かに積み重なっているのを感じました。
もちろん、町を少し離れる(市内でも中心部を離れる)と、朽ちて荒れ果てた光景はいやでも目に飛び込んできます。これが今も残る東西格差なのか、少子高齢化のせいなのか、あるいは、日本でも起こっている過疎現象なのか……。そのすべてが相乗的に作用しているのかもしれませんが、問題があることだけは、誰にでもわかります。

もう一つ、ライプツィヒで暮らすうちに気づいたことがあります。
それは、戦前までのシュトゥットガルトは、決して豊かな土地ではなかったということです。私が住み始めた頃、シュトゥットガルトにはベンツ、ポルシェの本社があり、その関連産業からIT産業までが繁栄の真っ盛りで、ドイツの中でも平均収入、不動産価格が最高レベルの町でした。だから、彼らのプライドは半端ではなかった。ただ、この繁栄は、ドイツの長い歴史から見れば比較的新しい現象にすぎなかったのです。
西の人の心には、いまだに東側を見下すという構図がありますが、東ドイツ地域のライプツィヒに住むようになってから、私はそのことにどこか滑稽(こっけい)さを感じるようになりました。
東ドイツ地域の人々は多くを語りません。しかし、その寡黙さの奥には、長い歴史に裏打ちされた静かな誇りがあるように思います。そして心のどこかで、西側の“成金的な豊かさ”を冷静に眺めているのかもしれない、と。
- 写真 :
- 川口マーン惠美










