「コアラのマーチ」で感動! 鑑別所から出て気づく日常こそ“極楽”

当たり前だった日常が「極楽」に感じられた
そのまま歩いて浴室まで向かう途中で、見覚えのあるリビングが目に入った。どこを見ても綺麗に片付いている。風呂場は隣のドアを開けたら、すぐの場所にある。そこまでは数秒で行けるが、回想をするには充分な時間だった。留置所や鑑別所では、自分でバスタオルや体を洗うタオルを持って、風呂場に行かなければならない。ところが、浴室には必要な物が全て畳んで置いてあった。いたれりつくせりだ。
服を脱いで、風呂場のドアを開けると、浴槽にはお湯がはってある。つい数日前までは、浴槽に入る時間は長くても1分。少しでも長く入るために、体と頭を高速で洗わなければいけなかった。今日は時間を気にする必要がない。そう考えるだけで、風呂場の地面に腰をおろした瞬間に、何もできなくなった。ただ風呂場で時間を過ごせるのが、幸せだった。
しばらくボーッとしてから、シャワーのつまみをひねって、お湯を出した。温かい。気持ち良い。体に染み渡っていく感覚だ。早く体を洗わないといけないが、動作は進まない。目からは涙がこぼれていたと思うが、シャワーのお湯に紛れていてハッキリとわからなかった。時間は無制限。ゆっくりと、ゆっくりと、体を洗った。
「あぁ」
思わず声が出た。頭から流れ落ちる水滴が心地良い。シャンプーに手を伸ばして、液を頭につけた途端に、驚くほど良い匂いがした。幸せだった。最後に浴槽に浸かった時は「極楽、極楽」という言葉を世の中に広めたパイオニアは、鑑別所から出てきた人なのではないかと思う程だった。
風呂場から出て、バスタオルで体を拭いていたら、フワフワの感触に頬ずりをせずにはいられなかった。バスタオルの横には、新しい服が用意されている。こんなにも満たされていいのだろうか。悪いことをしたのだから、罰を受けて、つらい思いをしなければいけない。それなのに、限りのない喜びを手にしてしまっている。ドアを開けて、リビングに足を踏み入れると、テーブルには信じられないほど贅沢な料理が並んでいた。エビフライ、野菜スープ、白ご飯。全て僕が好きな食べ物だ。
「うわぁ、すごい」
なんのためらいもなく出た言葉だった。家族は微笑んでいる。この家に入って感じた懐かしさや、思ったことを全て伝えた。父や母は、純粋に経験したことのない話を聞いている、という反応。祖母だけは、戦時中を思い出しているような様子だった。全員が席に着いて、手を合わせた。
「いただきます」
こんなにも湯気が出ているご飯を久しぶりに見た。留置所と鑑別所にいた4週間は、冷えきったご飯しか食べていない。白ご飯の温かさと、弾力は想像以上。続いて、野菜スープ、エビフライを口にした。この瞬間を超えられる料理は世界に存在しない、と思うくらいおいしかった。本当においしかった。食事中の話題は、勾留中の話になった。祖母に聞かれて、さまざまな苦悩を語った。
「そうか。もう戻らないようにしないとね」
優しさのなかに真に迫ったメッセージを感じて、固く誓った。もう絶対に心配をかけるようなことはしない、と。食後はすぐに風呂場に行く祖母。仕事場に戻る父。食器洗いをする母。4週間前と何も変わっていない。極上のディナータイムを終えて、僕はテレビのある部屋に移った。これも以前とは変わらないパターンだ。でも、テレビは見ていなかった。母の皿洗いが終わるのを、隣の部屋で待っていたのだ。
「心配かけて、ごめん」
皿を洗い終えて、隣に座った母に謝罪をした。父には車で謝ったが、母には謝っていない。一瞬だけ厳しい顔を見せたが、溜め息をついて立ち上がった。
「布団、クリーニングに出しといたから」
あとをついてくるように言われたわけではないが、立ち上がった母を見て、部屋に案内をしてくれるのがわかった。導かれるように2階の自分の部屋へ行くと、綺麗に片付けられている。ようやく帰ってきた。
捕まった人間が必ずやってしまう行動
全てはここから始まった。この部屋で連絡を取り合って、悪巧みをして、外で暴挙に出た。どことなく陰鬱な空気が少し残っている。母も掃除をしながら感じていただろう。限りなく清らかな部屋に片付けられていたものの、僅かに染み付いた闇の深さを感じた。母は押し入れから毛布を出して、僕に手渡した。それを受け取って、ベットの上に座った瞬間に立ち上がれなくなった。あまりにもフカフカな布団に体が沈んでいく。吸い込まれるように横になって、自然と瞼が下がった。
母が何かを喋っているのはわかっていたが、何も入ってこない。反応がないことを察してか、電気を消して部屋から出て行った。これだけ真っ暗な場所で寝るのは、留置所にいたとき以来だ。鑑別所は廊下の明かりが点いていて真っ暗ではなかったし、看守の足音が聞こえた。留置所は隣からヤクザのうなり声が聞こえたし、警棒で檻を叩く音が鳴り響いていた。羊の数を数えるように、苦い思い出を1つ1つ数えていたら、知らないうちに眠りについていた。
「ハァ、ハァ、ハァ」
息切れを起こしながら、目を覚ました。寝汗がヒドい。夢を見た。眠っていたら、四方八方から壁が迫ってくるという夢だ。鑑別所での最後の1週間を、2畳の部屋で過ごしていたからか。トラウマが植え付けられているようだった。今日からどんな生活になるのか、想定すらできない。捕まる前のような生活をできないことはわかっている。
時間は朝の10時。この時間まで起こさずに寝かせていてくれたのか。喉が乾いて1階に降りた。誰もいない。水を飲んで、何気なくテーブルの上に目をやると、携帯が置かれていた。そこに、買い物に行っていた母が帰ってきた。
「昔の仲間と連絡を取り合ったらダメだよ」
警察に預けられていた携帯を返してくれた。袋に入った携帯を取り出して、電源を入れた。三浦から着信が入っている。3週間前だ。
「久しぶりだな」
「お疲れさまです。いつ出てきたんですか?」
「昨日出てきたとこだよ」
「どうでした?」
「最悪だよ。留置所ではトイレの水も自分で流せなくてさ。お前はどうだった?」
「あ〜あれ嫌ですよね! 僕のとこもそうでした! 呼んでるのに、全く来てくれない時があって……」
「あー! 俺も俺も! それで何回も呼んでたら、怒鳴られたんだよ! あとさ……」
結局、このあと1時間以上ずっと喋りっぱなしだった。あとから聞いた話だが、捕まったことのある者は、皆こうなるらしい。誰とも話せない時間が長く続いて、溜まっている思いが山ほどあるのだろう。同じ境遇の仲間との会話にもなれば尚更だ。満足のいくまで話して、最後に電話を切る時に、三浦は言った。
「また電話しますね。45さん」







