寧々の逃走劇や山崎の戦いでの勝利にも貢献した忍びの働き

秀吉の活躍も美濃の山奥には伝わらず・・・
私たちは、長浜城からまず北へ向かい、姉川を渡り関ヶ原から越前に向かう尊勝寺町の称名寺にお世話になりました。小谷城趾の南側です。
このあと、どういう道を通ったか私は案内されるままでしたので、よく覚えていないのですが、草野谷の大吉寺というところにお世話になったという話もございますし、東側の七廻りの峠を越えて甲津原というところで、地元の方が演じる能を見せていただいて慰められたというような記憶もございます。
このあたりを案内してくれたのは、美濃の土豪で広瀬兵庫助という人です。この方に案内されて伊吹山の北側を、現在の国道330号線に沿って通り、岐阜県揖斐川町広瀬の城に落ち着きました。
長浜城は、明智方に呼応した阿閉貞秀(あつじさだゆき)と京極高次が占領しました。阿閉は浅井重臣で山本山城主でしたが、織田方に内応し、秀吉の与力とされました。けれども、あまりしっくりといかず、ここしばらくは、信長さまの直参扱いになっておりました。大男で相撲が得意なところが信長さまに気に入られたようでございます。
京極高次は、浅井家の主人筋に当たります。南北朝時代に派手な格好で奇抜な振る舞いをして「婆娑羅大名」といわれた佐々木道誉の子孫で、近江北半分の守護でございましたが、家臣の浅井氏が強力(ごうりき)となり、浅井家の客分のようになっておりました。
浅井長政さまの姉妹で、のちにキリシタンとしての洗礼を受け、京極マリアと呼ばれることになる女性が京極家に輿入れし、産んだ子が高次(大津城主から小浜城主)と高知(飯田城主から宮津城主)、それに竜子という兄弟姉妹でございます。
一方、佐和山城は若狭の守護である武田元明が占領しました。元明の美しい妻が、のちに秀吉の側室になる竜子でございました。そして、この京極家の人々は、私たちの人生に大きな関わりを持つことになります。
美濃の山奥に隠れているときには、天下の情勢がどうなっているかを知らせてくれる者もほとんどなく、だいぶ経ってから不確かな情報が届くだけでございました。

しかし、二週間ほどすると秀吉が帰ってきて、山崎の戦いで大勝利し長浜城から京極高次らも撤退したので戻るように、と言われて、6月17日には晴れて長浜城で秀吉と会うことができたというわけでございます。
このあと、6月27日の「清洲会議」で、新しい大名方の配置が決まり、秀吉は丹波と山城を新領地とする代わりに、長浜城と湖北三郡は柴田勝家さまに譲ることになりました。
そこで私たちは、住み慣れた長浜城をあとにして、新しく秀吉が天王山の山上と麓に築いた山崎城に移ることになりました。それから大坂城に移るまで短い期間、そこで暮らすことになったのでございます。

※ もともと小谷城は山上の砦と清水谷の館に分かれていた。普段の生活は館でしていたので、茶々や初(京極高次夫人)が生まれたのは館である。ただ、織田方との戦いが激しくなると、生活の場も山上の曲輪に移していた。だから末っ子の江は小谷城生まれである。
※ 明智光秀は安土城で勅使を迎えることにこだわり、摂津方面での制圧が遅れた。これが秀吉の山崎での勝利につながる大きな理由となった。
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- イラスト:ウッケツハルコ







