秀吉がミッションインポッシブルな身分違いの結婚を成功させた秘密

寧々と結婚したかった秀吉の“あの手この手”
こんな変化の時代でしたから、普請も盛んですし、新しく雇われた者たちの統率も必要でございましたから、藤吉郎のような頭が柔らかく機敏な新参者にもチャンスが巡ってきていたのです。
藤吉郎は、小柄で身のこなしが軽く、黒くて小さな顔に頬骨と顎がとがり、ぎらぎらした小さな瞳は目立ち、どうみてもハンサムではありませんが、どことなく愛嬌はございました。声は大きくよく通り、台所にやってきては軽妙な話ぶりで女たちを笑わせておりました。
買い物などで出かけたときに会うと、荷物を持ってくれたり、ともかく“まめな人”でした。愛情あふれる人であるのは、のちに天下人になっても変わらなかった美点でございます。
そのころ、母の朝日は、年頃になった自慢の娘だった私に良縁を求めて動き出しておりました。それを聞いた藤吉郎は、猛然と! 得意の「調略」を始めたのでございました。母の朝日は、出自もよくわからない藤吉郎との結婚など承知するはずがありません。父の杉原家利は、大人しくて何事も母の意向に逆らえるような人でありません。
そこで藤吉郎は、義理の叔父の浅野長勝に的を絞って攻勢をかけました。そのころの藤吉郎は、信長さまのお気に入りで少し頭角を現し始めておりましたから、長勝も藤吉郎は有望株だから悪い話でもないと思ってくれたようでございます。
結局、藤吉郎はさらに目上の上司からも浅野長勝に口添えしてもらったので、杉原家から藤吉郎などに嫁にはやれぬという朝日を説得するために、妹のややと同じように、自分の養女だということにして、この結婚を取り計らってくれました。

結婚の仲人は、信長公の母方さまの従兄弟である名古屋因幡守さまが務めてくださいました。蒲生氏郷や森忠政に仕えて美男として知られ、出雲の阿国の恋人などという噂がある名古屋三郎は、因幡守さまの息子らしいとか私の侍女たちが噂していたような気もいたします。
ところで、木下藤吉郎が名乗っていた木下姓ですが、藤吉郎の言うこともよく変わるので当てにはなりませんが、少なくとも私が最初に会ったときには、そう名乗っておりました。現在と違って戸籍などありませんから、主君や世間が認めてくれればそれでよかったし、とくに養子になったりしなくても、親戚の名字を名乗ることだってあったのでございます。
なんでも、織田家に仕官する前にお仕えしていた松下加兵衛さまからいただいたもので、松下に因んで名付けられたものだとか言っておりました。しかし、ときには自分の父親が「木下弥右衛門」だったとも言っていたので、よくわかりません。
私は、信長さまに仕官するときに、松下さまに似せて勝手に名乗ったのでないかと想像しております。人によっては、私の父が木下を名乗っていた時期があり、藤吉郎が婿入りして名乗るようになったとか仰いますが、私が結婚したのは、信長さまに藤吉郎が仕官して何年か経ったあとで、すでに組頭とかいったお役目ももらっていたのでございますから、名字なしではありえませんでした。
私の兄で姫路城主などを勤めた家定が、木下家定を名乗ったのは、長浜城主に藤吉郎がなったころに、一族であることを強調するために、杉原姓から変えたものでございます。
それでは本日はこのあたりで、ごめんくださいませ。
※ 寧々の実父の杉原家利が一時、木下祐久という信長の奉行として活躍した人物で、そこへ藤吉郎が入り婿のかたちで次いだという説がある。しかし、家利と木下祐久が同一人物であることを確実と言えるような材料はないので、ここでは採用しなかった。
※ 織田家の重臣たちの出自もいい加減なもので、柴田氏は越後新発田出身で斯波氏の末流、丹羽氏は桓武天皇と百済永継(百済の東城王の子孫とされ桓武天皇の後宮に入る前に藤原内麻呂との間に藤原冬嗣を生んだ。彼女を通じて摂関家に百済王家のDNAがもたらされている)の子である良岑安世の末裔、佐久間氏は桓武平氏である安房の三浦氏一族、前田家は菅原道真の子孫、池田氏は多田源氏だとかいうが、いずれも怪しい。
- 自由入力 :
- イラスト:ウッケツハルコ







