貧しい出自を誇り母を大事にした秀吉が隠した“父親の影”

貧しい百姓の子であることを誇っていた
藤吉郎が関白になるころ、なかの父は「萩の中納言」だが、政争に巻き込まれて尾張に逃れ、なかは京へ上って宮仕えをして藤吉郎を身籠ったのだと言ったり、天下統一後には、日輪がなかの胎内に入って生まれたとか、日吉権現の生まれ替わりとも言いだしました。
御落胤(ごらくいん)伝説というのは、この時代、珍しくはございませんでした。
薩摩の島津さまの初代は、秦の始皇帝の子孫と称する古代豪族秦氏の末裔で、平安時代の終わりごろに貧乏公家だった惟宗朝臣忠久です。母方の祖母が、頼朝の乳母だったので武士となったのですが、室町時代になって子孫が頼朝の御落胤だったと言いだしました。源氏だと言ったほうが室町幕府の下で好都合だと思ったからでございましょう。
現在の青森県辺りを治めていた津軽氏は、南部氏の支流らしいのですが、近衛氏に献金して、先祖の大浦政信は近衛尚通〔このえひさみち:「戦国時代」という言葉の命名者〕と大浦家の娘の子と認めてもらいましたし、茶々たちの近江浅井氏は、本来は聖徳太子のころに蘇我氏と対抗していた物部氏のようですが「仏敵」は嫌だと言って、領内にやって来た正親町三条公綱と浅井氏の娘の子孫ということにして、藤原氏を名乗っておりました。
誰もそんなことは信じていないのでございますが、古い門閥の方々に出世を納得してもらうためには、そういう噂があったほうが良かったという事情もあるのでございましょう。秀吉がただの農民なら関白になるなどもってのほかだが、高貴な方の御落胤である可能性があるなら仕方ないと思って、とりあえず納得する人もいるわけでございます。
戦国時代に生きた蓮如上人も、石山寺本尊の如意輪観音が生まれ替わったという伝説を流布されていますから、よく似たものでございます。また、秀吉が太陽の子だとかいうのは、明や朝鮮など各国への書状に書いておりましたから、中華文化圏での受けを狙ったものでもございました。
秀吉は、最後まで自分が貧しい百姓の子であることを隠したこともないし、むしろ、それを誇りにして自慢しておりましたから、そのことで秀吉が、いじましい人間であるかのように言われるのは、誠に、誠に残念なことでございます。
本日はこれでごめんくださいませ。

※ 日蓮宗常泉寺は、同じ中村生まれの加藤清正が創建したお寺で「豊臣秀吉の像」「秀吉産湯の井戸」「秀吉御手植の柊」がある。ここは竹阿弥の屋敷があったところらしく、子どものころに秀吉が住んでいたようだ。「秀吉御手植の柊」の案内板には「(秀吉は)小田原攻め凱陣の時、此の地に立寄りて一宿なさる。小早川隆景・加藤清正を呼召され、寺の建立ありたしと見れば、私11才の時植え置いた柊が繁茂せり、柊は鬼神も恐れる吉祥の樹なり大切に致べしとして、手づから竹を立添えられる」とある。
※ それとは別に、明治16年(1883年)、愛知県令国貞廉平が「豊公誕生之地」と記した標柱を建て、その2年後に豊國神社が創建された場所がある。しかし『太閤素性記』には、秀吉が生まれたのは、上記二箇所がある上中村でなく中中村であるとされており、800メートルほど南にある。GoggleMapでは「弥助屋敷跡」で検索できる。
※ 秀吉の出身階層については、さまざまな説が出されているが強引なこじつけも多い。「連雀商人」と呼ばれる行商人だったから賤視されるような階層だったとかいうのもあるが、行商人が店を構える商人より下だというような一般的価値観があるわけでない。興味を引くのは、情報収集や土木技術に強かった「声聞師」と呼ばれる民間陰陽集団と関わりがあるのでないかという推察である。
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- イラスト:ウッケツハルコ







