秀吉に「猿」とあだ名をつけた悪ガキ時代のマイメン

恩人となった松下加兵衛之綱への感謝
松下家の先祖は、近江源氏の六角一族と名乗っていました。松下一族のなかには、清景という人もいて、井伊直親の未亡人の再婚相手になり、子の直政もいったん清景の養子となり、家康さまにお目通りをして取り立てられてから、井伊に復姓したものでございます。
加兵衛さまと藤吉郎がどのようにして会ったか、詳しくは存じませんが、当時は江戸時代と違って、武士と庶民や無頼者まで市場などで取引をしたり、一緒に食事したりしていたのは『おんな城主 直虎』でも描かれていたとおりでございます。「猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と加兵衛さまが思ったというのは、このときのことと存じます。

そんな場で、ちょうど元服したばかりの加兵衛さまが、藤吉郎と意気投合して従者にしたというような話だと聞いております。ですから、身分は違えど友達のようなものでございます。
藤吉郎は、数十人ほどの家中で、生き生きと仕事をいたしましたが、名門として秩序を大事にする今川家中の重臣の家でございますから、流れ者の藤吉郎にとって面白くないこともございました。
そこで、先の見通しも立たないので暇乞いを考えていたところ、主人の加兵衛さまから尾張へ行って胴丸(鎧の一種)を買ってこいという指図があって、まとまった金子を頂いたそうでございます。
今川家臣の加兵衛さまとしては、織田に仕官しろとは言えませんが、餞別というお気持ちだったのでしょう。その頃には、藤吉郎も武家奉公をしても笑われない振る舞いもできるようになっておりました。今でも、小さい企業で3年も働いたら社会人として一人前でございます。
藤吉郎は、松下加兵衛を長く恩人として感謝し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いののち、丹波国などで3千石を差し上げ、九州遠征のときには、同じ部隊の将兵に対して「松下加兵衛の事、先年御牢人の時、御忠節の仁に候」とし格別の計らいを指示いたしました。
そして、石見守を名乗らせ、天正18年(1590年)に徳川家康さまが関東に移封されると、遠江久野(袋井市)1万6千石の大名に抜擢されました。子孫は陸奥国田村郡(福島県)の三春藩主でしたが、寛永21年(1644年)に改易されてしまいました。しかし、3千石の旗本としては幕末まで存続いたしました。
また、娘のおりんは剣豪柳生宗矩の夫人に、加兵衛の弟である則綱は土佐藩家老となり、一族は繁栄したのでございます。
本日はこれでごめんくださいませ。
※ 松下家は曳馬(浜松)城主である飯尾連龍(いのお つらたつ)の配下にあった。連龍は井伊直虎の祖父である直平を毒殺したとも言われる。最後は家康と通じて今川氏真に刃向かったが、だまされて駿府に呼び出され暗殺された。
※ 「甲相駿三国同盟」は天文23年(1554年)に富士市の善徳寺での三者会談で結ばれたとも言われ、今川義元の娘の嶺松院が、武田信玄の子の武田義信に、武田信玄の娘の黄梅院が北条氏康の子の北条氏政に、北条氏康の娘の早川殿が今川義元の子の今川氏真に嫁した。
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- イラスト:ウッケツハルコ







