「その壺よこせ!」信長のパワハラを跳ねのけた戦国未亡人

男の言いなりにはならない戦国の女性たち
ところが、事前の打診にも反応しなかったのが、信長さまをライバルと見る越前の朝倉義景さまで、それが問題になってまいります。
この頃、藤吉郎は京にいて私は岐阜にいたのですが、ちょっとした事件がございました。信長さまは茶道に凝られて、名物といわれる茶器などがあると聞かれると、強引に買いたいといって取り上げられることが多かったのです。
その信長さまが、斎藤義龍さまの未亡人である近江の方(浅井長政の叔母)が持っている壺が欲しいと言い出されたのでございます。近江の方は斎藤旧臣への配慮で、信長さまと帰蝶さまのお世話になっておられたのですが、誇り高い方でございますから、断固拒否されて、岐阜落城のときに紛失したと仰ったのです。
そして「これ以上、私を責めるならば自害する」と言われるものですから、帰蝶さまも信長さまのなさりように怒られて「兄弟女子十六人自害なすべし」と仰る騒ぎになったのでございます。さすがに、信長さまも諦めて、近江の方に謝罪される羽目になったのです。(※1)
信長さまも美濃を安定して支配するためには、道三さまの娘婿だからという建前は大事なので、こんなこともあったのです。戦国の女たちは、そう簡単に男の言いなりにはならなかったのです。
同じ頃、駿河では、武田信玄さまと德川家康さまが一緒に今川を攻め、今川氏真さまはついに駿河から追放されてしまいました。そののち、氏真さまは、夫人の兄弟である北条氏政さまを頼って小田原に移られましたが、そのうちに京へ出て、信長さまの前で蹴鞠を披露されたり、秀吉の天下になってからも京にお住まいでしたので、私もこのご夫婦にお会いしたことがございます。
たいへん仲の良いご夫婦で、最後は大坂夏の陣の頃に、ご夫妻とも江戸で亡くなったと風の便りに聞きました。国は失ってしまわれましたが、個人的にはうらやましいような御生涯でございました。子孫は品川という名字を名乗って吉良さまらとともに、幕府の儀典係である高家を務められていたと聞きます。

朝倉義景に鉄槌を食らわせたい信長の狙い
藤吉郎は、京の仕事が主でしたが、ときどき家来を連れて戦いに駆り出されておりました。とくに、永禄12年(1569年)の8月には、安芸の毛利さまの要請で、山名祐豊さまを討ちに播磨や但馬に遠征しました。
甲斐の武田氏の発祥の地は、常陸国那珂郡武田郷(ひたちなか市)というところでございますが、初代の武田信清は、地元の土豪と折り合いが悪く、甲斐に移されて、その子孫が甲斐の守護になります。
しかし、その一族で安芸の地頭になった者がいて、これが安国寺恵瓊などが出た安芸武田氏です。そして、そこから若狭守護の武田氏が出ておりますが、若狭に移った方が本流です。将軍からも頼りにされて、応仁の乱では東軍で大活躍したのですが、この頃には、地元の武士たちを束ねられないばかりか、当主の武田元明は朝倉氏の一乗谷に連れ去られて人質にされていました。(※2)
これを見て、足利義昭さまは、元明さまの母上が義昭さまの姉妹だということもあり、信長さまに若狭の混乱を収めて、元昭さまが戻れるようにして欲しいと頼まれました。
そこで、信長さまは3万人の軍勢を率いて、琵琶湖の湖西から若狭へ遠征されることになり、藤吉郎も参加いたしました。それに先立ち、藤吉郎の名前で若狭の諸将に守護の命に服すようにというお触れが出ており、この遠征で藤吉郎が主たる武将として期待されていたことがわかります。
しかし、信長さまにはもうひとつ狙いがあって、これを機会に、信長さまより下に扱われるのがイヤで、京に出てこない越前の朝倉氏に鉄槌を加えてやろうと思っておられたのでございます。
若狭で朝倉氏に同調する勢力の筆頭は、若狭西部の大飯郡石山というところの武藤友益という武将でしたが、信長さまは近江今津から北西に進まれて、熊川というところから若狭に入られ、若狭東部の佐柿に出られたのです。
そのあと、若狭西部には目もくれず、若狭の土豪たちを道案内に越前領内に入られて、1570年(元亀元年 4月26日)までに朝倉景恒が守る天筒山城と金ヶ崎城(いずれも敦賀市内の西部)を力攻めして、激しい戦いのすえに占領してしまったのでございます。
朝倉義景さまとしては、電光石火の攻勢に慌てて大混乱に陥り、義景さまはいったん出陣されたものの、一乗谷の館に戻られてしまいました。

※1 この事件について書いている山科言継の日記での登場が、帰蝶の動向についての最後の確実な記録である。それからそれほど経たない時期に没したとみるのが自然だが、本能寺の変ののち織田信雄が養っていた一族の女性に安土殿という者があり、これが帰蝶である可能性もある。もし、そうであれば、病気か何かで存在感が薄いまま生存していたのかもしれない。
※2 武田元明は、無理矢理に一乗谷に連れて行かれたのであるが、朝倉氏の要求を拒めずに、その意に沿った指令を若狭の武士たちに出していたということだ。
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- イラスト:ウッケツハルコ







