寧々「あっ…(察し)」。浅井長政が義兄・信長を裏切った数々の伏線

秀吉が織田軍のしんがりに立候補!
しかも、このころ藤吉郎の身の上には、たいへんなことが起きていたのですが、私は知るよしもありませんでした。なんと、織田軍の「しんがり」を分不相応にも引き受けたというのでございます。
信長さまからのご指名という説もありますが、私たちには、藤吉郎は「(先頭を進んでおられた家康さまの役目というのが普通ですが)応援の方々に迷惑はかけられない。いちばん後方にいる自分たちが、そのまま敦賀に留まって防御を固めて時間を稼ぐので、お任せあれ」と申し出たと話しておりました。
このような退却戦のときは、戦場から逃げ出す兵士が多いのでございます。江戸時代のように武士は終身雇用ではなかったので、そうなのです。そこで、応援部隊などはしんがりに向かないのです。そこで、それほど武勇があるとは思いませんが、信長さまに忠実で、家来たちをよく統率できる藤吉郎が選ばれたわけです。
第一報が届いたあと確認に少し手間取りましたが、信長さまは全軍撤退を決断され、28日には若狭佐柿の国吉城に入られ、朽木を通って、30日の夜遅くに京へ少人数で入られたそうでございます。
藤吉郎のほうは、金ヶ崎城に少数の守備隊を置く一方、要所要所に遊撃隊を潜ませたり、退却する先輩方から旗指物など借り受けて多人数に見せて、朝倉方が一気に攻めてこないようにしてみせたと、私たちに面白おかしく聞かせてくれました。岐阜に帰ってきたときのことで、自分の活躍ぶりをはらはらどきどきするような語り口でした。
このときには、明智光秀さま、池田勝正さま、それに德川家康さまも、ある程度の兵力を残してくださったそうでございます。光秀さまの残していってくれた鉄砲隊がおおいに役だったそうです。まだまだ、戦闘の主力にはなっておりませんが、射程距離は弓矢より長いし、発射音は、鉄砲に不慣れた越前衆などには効果満点だったわけでございます。

そして、長居無用とばかりに、主力部隊より丸一日遅れで退却していきました。
魚屋だった千利休との出会い
京へ帰った信長さまは、平静を装って禁裏造営の工事を見物しに姿を現されました。そのころには、湖西から若狭にかけては、丹羽さまなどが抑えられておりました。一方、丹波や摂津などでは、信長さま怖れるにたらずという土豪も出てまいりました。そしてなによりも、近江で六角承禎さまたちが、百姓も使って、南近江のあちこちで反信長の動きを煽りました。
これでは、信長さまは京と岐阜の連絡を絶たれてしまいますので、大津の(現在は)近江神宮がある場所の裏山にあたる宇佐山城に森可成を、野洲の永原城に佐久間信盛を、近江八幡の長光寺城には柴田勝家さまを置かれました。
また、地元の武士では日野の蒲生賢秀さまと氏郷さまの父子が大活躍で、六角さまと浅井さまの間のくさびになっていました。氏郷さまは、岐阜の信長さまのもとに人質として預けられていたのですが、剛直な性格が信長さまに気に入られ、なんと、次女の冬姫さまの婿になっていました。その氏郷さまが期待通りの働きをしたというわけでございます。
しかし、湖北は浅井さまが天を衝く勢いでございましたから、中山道で関ケ原を抜けることはできませんでした。信長さまは、千草街道を伊勢の菰野に抜けようとされたのですが、途中で杉谷善住房に狙撃され、被っておられた傘に当たって跳ね返ったものの危うく一命を取り留められました。
このあいだ、藤吉郎は京の仕置きを続けるとともに、盛んに堺へ出かけ、今井宗久さまから鉄砲や弾薬を買い集めて、岐阜に運ばせる仕事をしておりました。
また、この頃に今井さまの紹介で塩干魚を扱う魚屋をされていた田中与四郎さま、のちの千利休さまと初めて会ったそうです。すでに茶人としてもよく知られ、珠光茶碗など名物を集めて茶会など盛んにされていたそうでございます。

※ 北陸の米などは、海路で敦賀まで運ばれ、峠を越して琵琶湖の湊から大津方面へ運ばれ、京などに運ばれた。加賀藩では名君といわれた前田綱紀が、岳父だった保科正之に運動してここを別の領地と交換で加賀藩領として積み出し、大津に蔵屋敷を置いた。また、同じ高島市の今津も加賀藩領だが、これは、もともと利家夫人のまつに秀吉が与えた化粧料地に由来する。デパートの高島屋の発祥の地である。
※ 越前でも、敦賀地方と国府があった府中(越前市)より北は険しい山地で隔てられている。それを越える峠が木ノ芽峠であるが、現在ではその下に北陸本線の北陸トンネルが掘られている。敦賀は仲哀天皇と神功皇后が気比宮を置いたことがある。その西にあるのが金ヶ崎城で新田義貞らが戦った古戦場でもある。
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- イラスト:ウッケツハルコ







