浅井長政の憂鬱「せっかく信長を裏切ったのに、朝倉もグレーじゃん…」

信長を襲った上洛後最大のピンチ
信長さまは姉川の戦いの後、少人数の護衛だけを連れて京へ入られ、大勝利だと宣伝されました。そして、3泊ほどしてから岐阜へ戻られ、次の戦いの準備にかかられましたが、これが性急すぎたのでしょう、信長さまは上洛後、最大の危機に遭遇されます。
摂津方面では、またぞろ、三好三人衆が四国から戻って、この年の7月に石山本願寺に近い野田城や、福島城〔両方とも現在の大阪駅の西側で同名の駅があります〕に入って兵を挙げました。信長さまは岐阜から急行され、義昭さまも織田方を助けるために出陣、松永久秀さまや河内の畠山昭高も参陣されました。

ところが、石山本願寺も破却して退去するように信長さまから勧告されたのを怒ってとかで参戦したので、戦線は膠着状態になります。
これを見て立ち上がったのが浅井・朝倉と、かつては浅井の宿敵だった六角義賢さまの勢力の連合軍で、比叡山延暦寺とも連絡しての行動でした。ほとんど近江一国をあげて信長さまの敵になったのでございます。このころ、大津方面での織田方の拠点は比叡山の南、近江神宮の北にある宇佐山城で、森可成(もりよしなり)さまが守っておりました。
可成さまは堅田の土豪たちの加勢もあって、叡山の里坊がある坂本に進出して、浅井などの軍を迎え撃ちますが、多勢に無勢で打ち破られて信長さまの弟である信治さまや、それに湖南の草津付近の有力者だった青地茂綱さまともども戦死され、長政さまも京都を窺う勢いになりました。
これを聞いて、信長さまは京都に急ぎ戻られましたので、浅井・朝倉勢は叡山に退き籠もりました。信長さまは延暦寺に、浅井・朝倉勢を山内から追放すれば、奪われた荘園を返還するなど申し入れたり、朝倉氏には決戦を申し込んだりしましたが埒(らち)があきません。
しかも、伊勢では長島の一向宗の門徒が蜂起し、信長さまの弟である信興さままで戦死されました。
こうして絶体絶命に陥った信長さまは、義昭さまや関白二条晴良さまに坂本までお出まし願い、正親町天皇まで巻き込んで晴良さまに和平勧告をしてもらいました。このとき、義昭さまは仲裁者でなく、信長方の一員という立場での参加でございました。
このとき、浅井としてはもっと粘りたかったのですが、冬が近づいておりましたので、朝倉勢が帰国を望んだことが画龍点晴を欠くことになりました。
信長の流した噂に翻弄される長政
こうして、織田軍は勢多まで兵を引き、浅井・朝倉は湖西の道を北へ向かって引き上げ、久しぶりに浅井長政さまも、お市さまや茶々など家族のもとへ帰ってまいりました。この年に、長政とお市さまとのあいだには、のちに大津城主・京極高次の妻になる、お初が生まれておりました。
お初が生まれたのは、ふもとの清水館です。谷間に館や主な家臣たちの屋敷があり、入り口には20メートルほどの堀が切られておりました。まだ、大砲などがない時代でございましたから、十分な守りだったのです。朝倉家の一乗谷は、これをもっと大規模にしたものです。
城下町というものはなく、買い物は近くに定期的に市が立っていたので、そちらに出かけて用を済ませるのが普通でございました。
年が明けて元亀2年になると、正月の挨拶に藤吉郎も岐阜にやってまいりました。この頃になると、私の親戚たちも、それまでの織田家の直参から出世した藤吉郎の家来に身分を変えましたし、藤吉郎の親戚の者たちも百姓をやめて、にわか武士になろうと岐阜に集まってきておりました。
信長さまは、比叡山延暦寺との対決が新年の優先事だと宣言されて意気軒昂でございましたし、2月になると、孤立して頑張ってきた佐和山城の磯野員昌(いそのかずまさ)さまが織田方につくこととなり、磯野さまは高島郡を任されて大溝城に移り、丹羽長秀さまが佐和山城に入られました。
織田方は、磯野さまが内通しているという噂を盛んに流しました。そこで、長政さまは佐和山への救援を少し控えられたのでございます。これが仇になりました。一説によると、内通の噂に怒った浅井方が、人質に取っていた員昌さまの母親を殺して晒したのが原因とも言われておりますが、よくわかりません。
しかし、まわりを織田方に囲まれてだんだん孤立していった頃、いずれにしても磯野は高島郡を任す、という条件で磯野さまは大溝に退去しました。員昌さまは養子として信長さまの甥である信澄さま〔信長さまと跡目を争った信行さまの忘れ形見です〕を押しつけられ出奔することになりますが、それは後のことでございます。
しかし、5月に入ると浅井長政さま自身が、横山城や堀秀政さまが守る箕浦城を攻め、最後はなんとか撃退しましたが、藤吉郎もかなり怖い目をしたそうです。これは、この年のはじめから、信長さまの命令で、姉川の南北の交通が遮断され、その指揮を藤吉郎がとっていたからでございます。

信長さまは、前の年に弟の信興さまを攻め殺した伊勢長島の願顕寺の門徒を成敗しようと、木曽川の河口にある津島に出陣され、攻められました。抵抗が強く撤退しようとされたのですが、このときに、あの美濃三人衆のひとりの氏家卜全さまが戦死されました。
信長さまは、長島攻略はいったん諦めたうえで、比叡山延暦寺との対決に乗り出されました。
8月には信長さまが自ら近江に出陣して、小谷城を攻めたり、一向宗の拠点だった金ヶ森などを攻略し、延暦寺への包囲網は徐々に狭まってきたのでございます。
※ 姉川の戦いが織田・松平の大勝利だと言われてきたのは、信長が早々に京に入ってそのように宣伝したこともあるし、江戸時代の『甲陽軍艦』や『徳川実紀』で榊原康政らの活躍で、徳川軍が朝倉軍を蹴散らし、さらに浅井軍をサイドから攻撃したので織田軍は窮地を脱したと書いており、それが信じられていた。しかし、朝倉軍も徳川軍もそれほど厳しい戦いはしなかったようだ。
※ 横山城のような砦に、どのくらい女性がいたのかはほとんど不明である。長期間、多くの武士が家族連れで住むような場所でないのも確かで、家族は本拠地に残しておくなどしたのだろうが、たとえば、主立った武将が現地妻みたいなものを連れていることはなかったのかとか、飯炊き女的な女性はいなかったのか、性処理は遊女などでも連れてたのかなど、想像はいろいろできるが、確かなことはわからない。
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- イラスト:ウッケツハルコ







