【戦国TOPICS】比叡山焼き討ちは当時もドン引き? 信玄最強は家臣が話を盛った?

信玄は信長のライバル…ではなかった!?
この年になって、甲斐の武田信玄さまと信長さまの間の同盟関係にひびが入ってまいりました。その理由のひとつは、比叡山の焼き討ちでございます。
この焼き討ちのときに、天台座主で正親町帝の兄弟でおられる覚恕さまは、京におられたので無事でございましたが、これが甲斐国の武田信玄さまを頼って逃げていかれ、信玄さまに大僧正の肩書きを差し上げられて、打倒信長を訴えられたのでややこしいことになりました。
武田信玄率いる甲州武士たちは、信長さまの天下統一に立ちはだかった最強軍団であるといわれますが、信玄さまは失礼ながら信長さまのライバルといえるほどの方ではございません。
もっともらしい伝説が生まれたのは、武田旧臣の多くが徳川家に仕官したからでございましょう。江戸時代には軍学の先生も武田旧臣が多かったので、『甲陽軍鑑』のような怪しげな軍記物語が世の中に普及してしまったのでございます。
信玄さまは、父親の信繁さまから甲斐一国を引き継がれて、その半生を今川氏の支援を受けて信濃攻略に費やすのに使われました。ところが、信長さまの勢力が強くなったので、今川義元の娘婿だった長男の義信を廃嫡し、信長さまの養女(姪)を妻とする勝頼さまを跡継ぎにして、死ぬ5年前の信長上洛の年には、徳川家康さまと謀って今川氏真さまから駿河を獲得したのでございます。
これで、のちの太閤検地のときの石高を当てはめると、だいたい70万石の領主になられたのですが、そのころの信長さまの支配されていたのは350万石ほどですから桁が違います。
また、関東の北条氏康さまは、親戚の今川氏を滅ばした武田を良く思わず、越後の上杉謙信さまと手を組んでおられたのでございますが、元亀2年の10月に亡くなられるときには、武田との同盟に戻るように跡継ぎの氏政さまに遺言されていたのです。

三方原で苦戦している家康に援軍をおくる
これで、信玄さまは東からは北条、北からは上杉という敵に挟まれておりましたのが、上杉だけが相手となり、信濃の支配も安定していたので、徳川との係争地である遠江や三河の山間部に支配地域を広げようとしたのでございます。
信玄さまとしては、家康さまとの小競り合いですから、信長さまには、せめて中立でいて欲しかったのでございますが、信長さまは畿内での戦いにも援軍を出して戦ってくれていた家康さまの方に傾斜せざるを得ませんでした。
そして、足利義昭さまとの関係では、義昭さまは、信長さまと手を切るつもりはないのですが、ほかの大名にも上洛などしてもらって、信長さまのいわば傀儡から脱出したいわけでございます。
そこで、信玄さまに上洛を勧められたり、本願寺と信長さまの和平を信玄さまと組んではかり、本願寺から天目茶碗を信長さまに献上させたり、複雑な動きをしておられました。

一方、美濃東部の岩村城には、遠山景任さまが亡くなって未亡人となった信長さまの叔母のとても美しいおつやさまと、信長さまの五男で遠山家の養子になっていたのちの勝長さまがおられました。信玄さまは、これに圧力をかけさせ、結果、このおつやさまは、武田の武将である秋山虎繁さまを夫に迎えて、武田方に付いてしまわれたのでございます。
そして、信玄さまは10月3日に甲府を出発されて、徳川領の遠江に侵入し、二股城を落としたのち、12月22日には徳川軍と三方原で遭遇いたします。武田軍は浜松城を無視して三河へ向かおうとしたところ、家康さまが正面対決に出られました。
信長さまからは、城に籠もってじっとしているように言われていたのですが、南にある浜松城を無視して三河方面に向かう武田軍に我慢できなくなった家康さまは、武田軍に挑みかかられたのです。しかし、撃破され、家康さまは命からがら浜松城に逃げ帰られました。
このときに、信長さまが3,000人のみですが援軍を家康さまに送られたので、ついに、信長さまと信玄さまは手切れということになったのでございました。
※ 宇野宗佑元首相の実家は、守山宿の造酒家だったが、現在は「町家“うの家(け)”」という形で公開されている。
※ 信長の焼き討ちがあったころは、比叡山上には根本中堂などのほかは、それほど多くの堂塔はなかったようで、火事の痕跡はそれほど残っていない。
※ すでに健康を害していた武田信玄が、なぜ突然、織田に対して戦いを挑んだか不明である。もし、三方ヶ原の戦いに信長が援軍を送らなかったら、家康の領土のそれなりの部分を奪ったら、そこで満足していた可能性も高い。
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- イラスト:ウッケツハルコ







