「なんということでしょう!」腕利き古城リフォーマー秀吉

そうだ! 古城をリフォームしよう!!
秀吉はすでに、横山城や虎前山城に長くおりましたし、浅井さま滅亡直前には、この三郡のほとんどを浅井さまから奪って支配下に収めておりました。坂本城と滋賀郡を任された明智光秀さまの前例もあったので、そこそこの土地を束ねる大名になれることもあろうかとは期待していたようでございます。しかし、湖北三郡全体というのは、期待以上だったのです。
最初は小谷城に入り、私たち家族も岐阜や尾張から小谷に呼び寄せられました。小谷城は落城のときに焼けたわけでありませんから、そのまま使えたのです。
また、荒れていた麓の清水谷の館も再建されました。瓦が小谷城からは発掘されないのですが、こちらからは出てくるそうです。浅井さまの時代には、城にも館にも瓦は使われていなかったことと、秀吉や私たちが日ごろの住まいとし、政務も山上の城でなくこちらで執ったことがわかります。
天正3年(1575年)の8月には、信長さまが越前攻めの途中にお泊まりになられたことがあり、私たちが歓待させていただいたことはいうまでもありません。家中の皆も信長さまに声を掛けていただき大感激でございました。

しかし、本格的な支配には小谷城も清水館も湖から遠すぎました。信長さまからは、光秀さまの坂本城などとネットワークを組んで動けるようにと言われていたのですから、そういう条件に当てはまりません。秀吉の居城には、織田軍を素早く動かすために防塁で守られた湊を確保するという意味もございました。また、小谷は雪深いので、冬にあっては兵たちが動きづらいという問題もございました。
そこで、秀吉は坂本城に似た地形ということで、今浜というところにある古い城の跡を利用して、新しい城を築くことにいたしました。湖畔の砂浜ですが、地盤は割にしっかりしておりました。
秀吉は、浅井長政さまが竹生島に預けられていた建築資材をもらい受け、また、小谷城の櫓なども活用してお城を造りました。
堀を広くとり、都で急があれば、すぐに駆けつけられるようにいたしました。坂本城のほか、少し遅れてできた織田信澄さまの高島郡大溝城、そして、信長さまの安土城とネットワークを組んだというわけでございます。
「城下町」という新しい発想
天守閣は大坂城や伏見城に比べると、それほど大型のものではありませんでしたが、それでも、鉄筋コンクリートの大阪城や名古屋城を知らない私たちにとっては、びっくりするほどの大建築という感じでございました。いま、鉄筋コンクリートで再建されている天守閣の50メートルほど北西にありました。私たちの住んでいた御殿は、もう少し南東の二の丸にありました。
西は琵琶湖に直接面しており、湖西の村々や行き交う船が見えましたし、東側には入江というか小さな内湖がございましたので、伊吹山の雄渾(ゆうこん)な姿が手に取るようでした。
家臣たちの屋敷は、現在のJR長浜駅の周辺に拡がっておりました。そして、外堀を埋めたあとの「外堀くすのき通り」(南北)と「大手門通り」(東西)の交差点に大手門があり、その外側に城下町がありました。
この「城下町」というのも新しい発想でございました。小谷城では、近くに「市」がたつとみんなで買いに行くという感じでしたが、ここでは、楽市・楽座が開かれ、現在の商店街のような町並みもできたのです。これが、その少しあとの安土の町の実験場のようになりました。
秀吉がつくった城下町の、間口が狭く奥行きが長い町家が並ぶ短冊形の区画は、長浜の町の中心部にも残っており、明治時代の土蔵造りの建物を活かした「黒壁」という観光名所になっております。

町の外れには、鉄砲の産地である国友村があるというのも重要でございましたし、岐阜から1番近い琵琶湖の港でもありました。
小谷城は、秀吉から長浜城完成とともに「破城」が命じられ、石垣などもすぐには補修して使えないように崩されたのでございます。もちろん、長浜築城にともなってめぼしい資材は転用されたでしょうし、それがまた再利用されたかもしれませんから、たとえば、彦根城にある小谷櫓が、もともと小谷城のものだという伝説も一概に否定できません。
ただ、そうだとしても原型はほとんど残していないでしょう。このほか、実宰院の山門や福田寺の御殿についても、もともと小谷城にあったものだという言い伝えがございますが、確認はされておりません。
実宰院は小谷城の南にある尼寺で、浅井長政の姉妹で茶々たちの叔母にあたる昌安見久尼が住職だったのですが、なんと身の丈五尺八寸(約176センチメートル)、二八貫(約105キロ)もあったといいます。ここの本殿には後年、茶々によって寄進された昌安見久尼像が祀られているので、小谷城陥落の頃か、北ノ庄城落城の頃かなどはわかりませんが、茶々たち姉妹が滞在したことがあるのかも知れません。
※ 万福丸が、お市の子かどうかは不明である。違うという気はするが、決め手はない。
※ 織田・豊臣の武将たちは、新しい領国に入ると城を新しく築くことを好んだが、その場合でも、とりあえずは古い城を修築して使うことが多かった。甲斐の躑躅崎(つつじがさき)にある武田館の遺跡には、立派な天守台まであるが、豊臣時代のものだし、越後春日山の総構えも堀時代のもので、いずれも新しい居城を築城するまでの短い期間しか使っていないのに、かなりの工事をしている。小谷城でもそういうことがあったのだろう。
※ 長浜城は、清洲会議の結果、柴田勝家の養子である勝豊に譲られたが、すぐに死んだので、山内一豊が入った。そのあと石田三成が領主になったが、佐和山城を居城にしたので荒れていた。徳川初期には内藤信成が城主となったが、移されて廃城となった。長浜の城や町はこの途中で徐々に改変されたとみられるので現在、発掘調査などで出てくるのが、どの時期のものか不明で、秀吉の頃どのような城だったかについては区別できない。
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- イラスト:ウッケツハルコ







