勝って当然だった「長篠の戦い」で秀吉が信長に褒められたワケ

似た者同士だった織田と毛利が決裂した真相
長浜城に落ち着いた秀吉は、信長さまの本願寺攻めや紀州攻略にも参加しておりましたが、中国地方平定という大仕事がまいりました。
もともと、毛利氏の勢力圏は備中や伯耆まででしたし、信長さまは摂津まででしたから、織田と毛利は中間地帯で紛争が起きると協力して押さえ込んだりしておりました。また、三好三人衆などに対抗して、足利義昭さまを支える立場も共通していました。皇室を大事にするということでも、織田と毛利はよく似た考えだったのでございます。
石山本願寺と信長さまも好んで敵対したわけではありません。そして、毛利は信長さまにとって本願寺との対話の仲介者でもありました。
毛利との対話の窓口を務めていたのが秀吉で、そのなかで毛利方の外交僧だった安国寺恵瓊さまが「信長はそのうちに高転びするだろうが、藤吉郎はさりとての人物」などと書状に書かれたという有名な話もあったわけです。
そして、織田と毛利にとって共通の敵ともいえるのが、備前の浦上宗景さまだったのです。浦上氏というのは、播磨と備前の守護だった赤松氏の守護代でしたが、この頃は赤松氏をしのぐ勢いでした。その浦上氏の麾下の有力者に、宇喜多直家さまというくせ者がおりました(奥方のおふくは、のちに私たち夫婦の良き友達になります)
ところが、浦上宗景さまが天正元年の終わりごろ、信長さまの保護を受けたいと言いだして、播磨・備前・美作三国支配についての朱印状を信長さまは与えたのです。そして、播磨の別所長治、小寺政職、赤松氏などと信長さまは謁見されました。
しかし、逆に宇喜多直家さまは、備前の支配者となるために毛利さまと同盟されたのです。とはいえ、織田も毛利も前面衝突は避けたいので交渉が重ねられたのですが、天正4年(1576年)の2月に、足利義昭さまが毛利領の備後鞆の浦に強引に引っ越しされたのです。

そこから反信長の号令を各地に発せられたことで、織田と毛利は決裂したようになり、7月に毛利水軍が、兵糧攻めにされていた石山本願寺に水軍を使って食料を運び込んだので決裂したわけです。
秀吉の片腕、黒田官兵衛の登場
さらに、天正4年5月には、毛利軍は播磨に水陸から攻勢をかけて、いよいよ本格的な対決が始まりました。この頃、小寺政職の家老で小寺孝高という武士が秀吉のところに挨拶にやってまいりました。
2人には通じるものがあったようで、こののち秀吉の片腕となっていきます。大河ドラマの主人公にもなった黒田官兵衛でございます。

黒田家は備前長船を本拠にしていました。この頃は、戦乱のなかで播磨の小寺氏の元にあって主君の名字を名乗っていたのですが、もともとは近江源氏の一党で、秀吉の領内である伊香郡黒田庄(長浜市木之本町)がルーツですから、長浜城主である秀吉に親近感があったのかも知れません。
天正5年になると、秀吉は信長さまから中国方面の司令官のような立場につけられて播磨に出陣するのですが、官兵衛は自分の居城だった姫路城こそ秀吉の播磨統治の本拠にふさわしいと言って、この城を明け渡しました。
そして官兵衛の力添えで、三木城の別所長治、竜野城の赤松広英から人質を差し出させ、播磨一帯を抑えることに成功いたしました。官兵衛自身も息子を人質に出し、これは長浜城で預かることにいたしました。のちの福岡城主・黒田長政です。
このあと、天正7年に官兵衛さまは、信長さまに謀反をした荒木村重さまを説得に有岡城へ向かったとき、城内に幽閉されたことがございます。官兵衛さまの消息がわからなくなったものですから、荒木方に寝返ったのに違いないと信長さまが怒られ、人質の長政を斬れと命令されました。
秀吉は、官兵衛を信じてなんとか助けたいとその場をごまかし、私に匿うように手配させたのでございます。
さらに、秀吉は国境にあった毛利方の上月城を攻撃し、ここでは見せしめのために降伏を許さず、200人ほどは皆殺しにしたと聞きました。これには、たいそう心が痛みました。
どうも、この頃から信長さまは、恨みを買うような命令をいろいろ出されるようになり、これがのちの本能寺の変にもつながっていくのでございます。
※ 越中では一向宗に対抗するためにも織田・上杉は一致していたが、上杉が本願寺と和睦し、能登に食指を伸ばし、織田軍が到着する前に七尾城は陥落し(「霜は軍営に満ちて秋気清し」に始まる『日本外史』所収の漢詩は有名だが謙信の作ではなさそうだ)、加賀の手取川では柴田勝家の軍勢を蹴散らすのに成功したが、翌年に大規模な出陣の準備中に急死した(1576年)。上洛を企図していたともいわれるが、北条攻めだったと見るほうが一般的である。この直前に死んだ北条氏康は、一時、謙信と組んだが、遺言で武田との同盟に戻るように指示していた。なお、賤ヶ岳の戦いの経緯で、秀吉は敵の敵である上杉景勝と手を組み、上杉氏は豊臣政権の傘下に入る。
※ 福岡市の地名の由来は岡山県邑久郡長船町にある。黒田如水の先祖は近江源氏京極氏の一党で、賤ヶ岳に近い湖北の伊香郡木之本町黒田というところから出ている。如水の曾祖父にあたる高政が事情があって備前に移り、その子の重隆が播磨に転じて、その子の職隆が赤松一族の小寺氏に属し姫路城を得た。
※ 髙天神城は掛川市内で、掛川城と遠州灘とを隔てる山地にある。小さい城だが、難攻不落で、徳川と武田の攻防戦の舞台となった。
- 写真 :
- PIXTA
- 自由入力 :
- イラスト:ウッケツハルコ







