まるでディズニー? USJ? お金を払っても見たい信長自慢の安土城

信長自らが案内をするほど自慢だった安土城
織田信長さまは、天正3年12月に嫡男の信忠さまに家督を譲られ、茶道具だけ持って岐阜城下の佐久間信盛さまの屋敷に引っ越されました。そして、翌年になると近江国蒲生郡に安土城の築城を始められました。私たちが長浜に引っ越した翌年のことです。
せっかちな信長さまでございますから、築城工事を始めるとすぐに引っ越しされて、工事の指揮を執られたのです。この安土城は、それまでの城と比べて全てが規格外の立派さでしたが、なんといっても人々を驚かせたのは豪華な天守閣でございます。
徳川四代将軍家綱のときの「振り袖大火(明暦大火)」で焼失した江戸城の天守閣を再建するかどうか議論したおりに、将軍の叔父である保科正之は再建に反対して「天守は近代、織田右府(信長)以来の事にて、ただ遠くを観望いたすまでの事なり」といったそうです。
天守閣のルーツというものはいろいろ説がございますし、天守(天主、殿主)といった呼び方をされたのもいくつかあります。しかし、安土城のものは、規模も豪華さもそれまでのものと桁が違うものでございました。
大手門から天守閣の足下までは、ほぼまっすぐに伸びた階段が続いておりました。防御より見かけを大事にした城でございました。信長さまは来訪者をみずから案内されて見物させ、一般民衆にも開放して自ら入場料を集めたそうです。

どうして、安土に城を築いたかというと、ひとつには、京都には50キロほどですから、早朝に発てば夕方には着く距離でございますし、岐阜城からは75キロですから、一泊すれば余裕だということがあります。
信長さまは、京では面倒くさい儀式に付き合わねばならないので住みたくはないが、いったん急があれば、いつでも駆けつけられるようにと考えられたわけでございます。
もうひとつは、織田家の先祖だとされる平資盛の子が幼少期を過ごしたと言われる津田荘が、ここからすぐ近くにあるのにも注目です。それが動機だという証拠はございませんが、創業の地に本社を移したとしたら、ほかの理由もあるかもしれないが、先祖帰りが主たる理由だと見るのが普通でないでしょうか。どうして、皆さんそれに注目されないか不思議でございます。
信長は義昭の将軍復帰を願っていた
足利義昭さまを追放したあと、平清盛の子孫として天下に号令しようとした信長さまのお考えと結びついていたのでないか、とか言っている人もおりました。
足利義昭さまとの関係はお話ししたように、信長さまは、同じ平家の鎌倉時代の北条氏や小田原の北条氏のように、将軍さまや関東公方さまを床の間に置いて天下を仕切ろうとされたわけです。ところが、義昭さまは飾りにされるのは嫌だと仰って、決裂してしまいました。
それでもしばらくは、信長さまは、義昭さまの将軍復帰を願っておられたのですが、信忠さまに家督を譲られた機会に、権大納言・右近衛大将となるようにという帝の申し出を天正3(1575)年に受けられました。これは将軍が名乗る官職と同格でございました。
さらに、翌年には正三位内大臣、さらに天正5(1577)年には従二位右大臣になられたのです。その右大臣を半年後には辞めてしまわれるのですが、平清盛さまでも太政大臣をすぐに辞めたのと同じで、朝廷の儀式に付き合うのも面倒だから、いちど「格」をいただいたら用は済んだのでございましょう。
ただ、朝廷からすれば、官職を何か受けてもらわないと、ありがたみを示せません。もちろん、お礼の金品ももらえないということだってございます。死の前年には、左大臣叙任を打診されましたが、帝から誠仁親王さまへの譲位実現後に、と信長さまは返事されたといいます。
本能寺の変の直前には、将軍就任が打診され、武家伝奏(朝廷と武家を取り次ぐ役)の勧修寺晴豊さまと京都所司代の村井貞勝さまが、信長さまを将軍・関白・太政大臣のいずれかにすることを話し合ったとも聞いております。
この「三職推任」を言い出したのがどちらかわかりませんが、たとえ、信長さまご自身か、京都の奉行である村井さまの提案かいずれにせよ、すでに将軍就任をもちかけたこともある朝廷にとって困るわけでありません。
そんな宮中のしきたりなど、その頃の私にはなんのことやらわかりませんでしたが、秀吉が関白になったり、帝の御行幸を聚楽第にお迎えすることになった頃には、公家衆からいろいろお話しをうかがう機会も増えました。

そうしたときに、信長さまが本能寺で亡くなっていなかったら、どのようにされたのだろうかと、ある高貴な方と話しあったことがございますが、その方は、信長さまの頭にあったのは、やはり足利義満さまでないかと言っておられました。
義満さまは若くして公方さまになられたので、そこは真似できませんが、太政大臣となられ、さらに准后ともなられました。また、後小松天皇を北山第に行幸いただかれました。
それが頭にあれば、信長さまは太政大臣となって、正親町帝の御譲位後に新しい帝とともに安土へ御行幸をいただき、信忠さまには征夷大将軍となっていただき、織田家の天下を盤石のものにしようとされたのではないかと申されておりました。
秀吉のように関白になろうとはされなかったのかといえば、儀式嫌いの信長さまのご趣味ではないと思います。秀吉は仰々しい儀式が好きですし、京の町も好きだったのです。それは、私が終の棲家に大坂でも伏見でもなく、京を選んだことでもわかってもらえると思います。しかし、もっと好きな場所があるとすれば……、それは長浜かもしれません。
※姫路城は、黒田官兵衛が主君の小寺氏のもとで居城としていた(官兵衛も小寺氏を名乗っていたこともある)。秀吉が播磨へ来たとき、官兵衛はこの城を播磨統治の中心とするように勧めて献上した。秀吉のときの姫路城には三層の天守閣があった。その後、秀吉の弟の秀長、寧々の兄の木下家定を経て、関ケ原の戦いのあとに池田輝政が現在の城を築いた。その後、本多忠政・忠刻父子が城主になって、豊臣秀頼の妻だった千姫が忠刻と再婚してここに住んだこともある。
※織田信忠は従三位左近衛権中将であり、武田攻めの総大将を務めており、征夷大将軍にもっともふさわしい実績である。右大臣にすでになっている信長にとっては、嫡男の信忠を将軍にして、自分は太政大臣になって足利義満が北山第に行幸を迎えたように、安土に行幸を受けるというのがもっとも自然だと思うが。
(参考)足利義満の官位・官職は概略以下の通り。1367年正五位下→1369年征夷大将軍宣下→1374年従四位下参議左近衛中将→1375年)、従三位参議左近衛中将→1378年権大納言に転任右近衛大将→1379年従二位権大納言右近衛大将→1380年従一位権大納言右近衛大将→1381年内大臣右近衛大将→1382年左大臣右近衛大将蔵人別当→1383年源氏長者、淳和奨学両院別当兼務→同年准三宮→1394年征夷大将軍辞任(足利義持に譲る)→同年太政大臣→1395年太政大臣辞任。
※織田家の始祖である親真は、平資盛と三井寺一条坊の阿闍梨真海の姪との子で、平家滅亡に際して、母は近江蒲生郡津田庄に隠れ親真を産み、津田の土豪の妻となり、親真も津田姓を名乗ったが、のちに織田家の養子となったという。津田庄は現在の近江八幡市南津田だが、そこから安土城は直線距離で5.8㎞である。
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- イラスト:ウッケツハルコ







