織田家の跡目を“誰が”支えるか?「清州会議」の舞台裏

美女お市が嫁いできて勝家がメロメロに
もともと柴田さまは、信孝さまの後見役だった時期もあり、勝家さまは、4人の宿老のなかで、丹羽さまと池田さまが秀吉と手を結んだのに対抗するため、信孝さまが約束を破って三法師さまを手元に置くことを後押しされたのです。
しかし、柴田さまが本気で秀吉と対抗するためには、冬になると雪に閉ざされる越前から出て、長浜を本拠にでもされないといけなかったのですが、越前の北ノ庄城に留まられたままでした。
そして、これには、お市さまの結婚というオマケまであったのです。
お市さまと柴田さまの結婚は、一般的には信孝さまの斡旋でと言われますが、お市さまと信孝さまがとくに親しいわけでもなかったですし、お市さまと娘たちがお世話になっていた信包さまは、秀吉と行動を共にされているのですから、信孝さまの指図を受ける立場ではありません。
この結婚は、信長さまと同じ土田御前を母とする伊勢上野城の信包さま、それにお市の母である土田御前の意向だと聞いております。もしかすると、信長さまの生前から、そんな話もあったのかもしれません。

いずれにせよ、信長さまが亡くなったあと、お市さまや3人の娘たちの面倒を誰が見るかは難しい問題になっていましたから、土田御前が娘のことを心配して、旧知で独身である勝家さまに嫁がれては、と思いつくのはありそうなことだからです。
そして、岐阜城から清洲に避難していた土田御前が、信包さまらと相談して決められたということには納得がいくのです。
そこで、お市さまと3人の娘は、伊勢上野城から越前への旅に出られたのでございます。その途中に、浅井の旧領である湖北を通られました。宿泊した寺院などには、浅井家の縁者たちで訪ねてくる者もあったと、茶々からあとで聞きました。小谷城下も通られましたから、お市さまにとっては、懐かしくはあるが、つらい記憶を思い出すことになる旅だったことでしょう。
一方、美しいお市さまを迎えた柴田さまは有頂天でした。新婚生活を楽しむために、北ノ庄に釘付けになりながら、それでもって、織田家の一員になれたとばかりに、信孝さまの野心を後押しされるようなことをされたのです。
本当は秀吉がお市さまを狙っていた、とかいう人も後の世にはいるようですが、信長さまに叱られてからは、秀吉が本妻としての私をないがしろにするようなことはありませんでした。まさか、お市さまを側室にするわけにもいきません。
それに、すでに書いたことがあるように、秀吉はお市さまと会ったことなどなかったので、惚れるも何もなかったのです。むしろ、織田家の人々のお世話をしていた堀秀政さまから相談を受けたときも大賛成いたしました。
領地が欲しいとか、宿老たちの筆頭だからとかいうより、お市さまとの結婚で柴田さまが満足して、おとなしくなれば儲けものだったのです。
秀吉「いまに安土城より立派な城を作る!」
私のほうと言えば、長浜城を退去してどこかへ移るということは、本能寺の変の前から決まっていたのです。その頃には、秀吉は姫路城を本拠にして、中国地方を知行地のようにしつつありましたから、毛利攻めが一段落したら、近江の領地は返すつもりでおりました。
それは明智さまも同様で、坂本城から亀山城に移れとか、いずれは出雲にとか言われていたとも聞いております。
清洲会議ののち、私たちは急いで引越しの準備に入りました。秀吉から行き先は山崎城だと言われました。本丸は、明智方との戦いで秀吉が拠った天王山の山頂にございました。ここに可愛い天守閣が築かれましたが、山崎の戦いで勝利の立役者となったのが誰か、ということを天下に見せつけたかったのでしょう。
私たちが落ち着いたのは、麓の宝積寺というお寺でした。また、淀川の対岸の男山、つまり石清水八幡宮がある小さな山の頂上にある砦も強化して、淀川の両岸から京を睨むようなことになりました。
あまり広い城ではなく、義母のなかも長浜城を懐かしがって、秀吉に愚痴をこぼしておりましたが、秀吉は「ちょっとだけの辛抱じゃ。近いうちに安土城より立派な城を作るんじゃ」とか脳天気なことを申しておりました。

私が「どこにつくるつもりか」と聞いたら、秀吉は「大坂じゃ。あの石山本願寺があった場所よ。昔は、仁徳さまとかいう偉い帝の都があったらしいのじゃ。今は池田恒興に預けてあるが、いずれあそこをこの国の都にするんじゃ」とか、わけのわからんことを言っておりました。
※天正10年(1582年)10月8日に大徳寺で秀勝を喪主とする葬儀を執り行った。本能寺の変ののち、葬儀や法要について話がまとまらず、さまざまな人が勝手に法要などしていたが、秀吉が京を支配している立場を利用して華々しい葬儀を挙行した。
※永禄10年(1567年)、信忠は11歳のときに7歳だった武田信玄の五女松姫さまと婚約した。上杉景勝公の正室となった菊姫は同母の姉である。ところが、元亀3年(1572年)に織田と武田が手切れになったことから婚約は棚上げになった。しかし、信忠には正室がいなかったようだ。もしかすると、武田を滅ぼしたあと予定通り正室として迎えるつもりだった可能性も皆無ではない。三法師(のちの秀信)、吉丸(のちの秀則)という2人の庶出の男子がいたが、幼年で嫡子としてきちんと認められていたかどうかは不明。三法師の母は、摂津の武士・塩川長満の娘といわれる。大津市下坂本の聖衆来迎寺に墓がある。
※信雄が尾張、信孝が美濃をもらった領地配分はほぼ平等に見えるが、美濃には稲葉氏に代表される斎藤時代からの土豪たちが健在で、しかも、美濃攻め以来の経緯で秀吉と親しい武士も多く、それを支配下に入れたとしても強い統率は難しかった。なお、この時期に木曽川は流路が不安定で、それに伴う境界争いもあった。
※織田信包は信長の弟で、おそらく同母とみられる。京での馬揃えでは、信雄と信孝の間の序列になっていた。一時は伊勢の長野氏の養子になっていた。安濃津城と伊勢上野城の城主で15万石を領した。しかし、1894年に秀吉の不興を被り改易されたが、お伽衆として丹波柏原3万6千石で復活し、淀殿や秀頼を支えたが、大坂冬の陣の直前に死去。子孫は旗本として存続。お市については、最初は守山城主で叔父の守山城主・織田信次に預けられていたという説もある。
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- イラスト:ウッケツハルコ







