3人の愛娘を残して…戦国武士らしく散った柴田勝家とお市

賤ヶ岳の戦いでの前田利家の根回し
秀吉が、いったん信孝さまを牽制するために岐阜に向かったのは、柴田軍をおびき出すつもりだったのですが、案の定、柴田軍の佐久間盛政さまは、中川清秀さまが守る大岩山の砦を急襲されました。岩崎山の砦の高山右近さまは撤退し、清秀さまにもそれを勧めましたが、清秀さまは踏みとどまって討ち死にされたのです。
あとのことですが、清秀さまの嫡男である秀成さまは、秀吉の指示で浅井旧臣の新庄直頼の養女になった佐久間盛政さまの娘と結婚されました。しかし、清秀未亡人はこの嫁につらく当たったそうです。なにしろ清秀未亡人にとって、嫁は亡き夫を殺した仇の娘なのですから。
このときに秀吉は、勝家さまが木之本付近から動き出すことを予想していたので、あっという間に美濃から近江に戻ってきました。山崎の戦いのときの中国大返しよりも見事な手配でしたが、もともと領国として支配していた土地ですから、私もよく知っている地元の人たちがとてもよく協力してくれたのです。
そして、4月21日には、有名な賤ヶ岳の戦いがございました。加藤清正とか福島正則たち七本槍といわれる若者たちが活躍したのが、この時のことです。

この戦いでは、前田利家さまは柴田軍の中におられましたが、利家さまと夫人の「まつさま」は、私たちの無二の親友で、おふたりの娘の豪姫を養女にもらっていたというような関係です。
といっても、越前府中(越前市)城主で柴田さまの与力という立場だったので、利家さまも仕方なしに参加されていたのですが、事前に秀吉とも話し合っており、寝返りはしなかったものの、戦わずに戦場から撤退されたのです。
勝家さまは、敗走して北ノ庄に帰られる途中、府中城にいる利家さまのところに立ち寄られましたが、愚痴は言われなかったそうです。
そして、そのあと秀吉もまた府中城に立ち寄り、和解をしたのです。私もまつさまたちのことは心配でしたから、ほっといたしました。
3人の愛娘を残して夫と心中したお市の心境
北ノ庄城への攻撃は4月23日に始まりました。翌日には大勢も決し、勝家さまは敵の手で討ち取られるよりはと、自決する覚悟を述べられ、城から落ちたい者は自由に出て行くように仰いました。
それにも関わらず、そこに残った家臣や妻妾たちは、勝家さまと共に果てることを望んだといいます。そして、一族そろって念仏称名を唱え、この世に別れを告げ、おのおの自決したり、差し違えたりといった地獄絵が繰り広げられたのです。
ご存じのように、このときに勝家さまの妻であるお市さまも、3人の娘たちを残して自害されました。どうしてお市さまが、小谷城のときと違って死を選んだかについては、いろいろな説明がございます。
茶々からのちに聞いたところでは、小谷城のときと同じように、娘たちと一緒に落ち延びてくれるものだと思っていただけに、お市さまが城内に残ると言ったことは衝撃だったそうです。
どうして自分たちを残して死んだのか、茶々たちも納得できなかったそうですが、あとで聞いたところによると、その場の雰囲気として、お市さまも柴田一族と運命を共にするのが自然な選択になってしまった、ということのようでございます。
どの時代でも戦争に集団自決は付き物です。そうしたとき、本当に死にたいと思う人はそう多くないのです。しかし、誰かが「みんなで死のう」と言ったとき、それに反対するのは難しいことなのでございます。
お市さまの最後の場にはいなかった茶々たちが、その様子を詳しく知ることができたのは、勝家さまが話術に巧みな老女に命じて、すべてを見届けたあとに城外に出て、敵方に自分たちの最後の様子を語らせるように命じたからだと、宣教師フロイスの報告にございます。
あの時代にしては、近代的な考えの者が多かった織田の家中にあって、ただ1人、古武士らしい振る舞いに徹することが誇りだった勝家さまは、こうして多くの人を道連れに芝居がかった戦国武者としての人生にピリオドを打たれたのです。

茶々たちは、三の丸まで送ってきたお市さまに別れを告げて、羽柴軍の陣営に送り届けられることになりました。そこから、前田さまの居城である府中に立ち寄ったあと、しばらくは湖北の寺院に預けられておりました。
当時は、茶々たちも生き延びるのに夢中で、預けられているのがどこかなどという意識がなかったので、あまり覚えていないそうですが、やがて三法師さまがおられる安土城に住むことになりました。
安土城は、本能寺の変のあとに天守閣などは焼かれましたが、すべての殿舎が失われたわけではござません。応急で新しい御殿も二の丸に整備され、のちに豊臣秀次さまが近江八幡に移られるまでは、城も町も存続していたのでございます。
こうして、越前での戦いが終わったことで、岐阜の信孝さまは孤立無援ということになってしまわれました。結局、信雄さまの勧告で城を出られ、5月2日には尾張の知多半島にある大御堂寺で自害されました。
このときに「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」と、辞世の歌を詠まれたともいいますが、切腹を命じたのは信雄さまですから、こんな辞世の句を信孝さまが詠まれたというのは、江戸時代になってから誰かが言い始めた作り話なのでございます。
※ドラマなどでは、清洲会議に信雄と信孝も出席して家督を争うが、秀吉が三法師を抱いて登場し家督後継者にして、信雄と信孝は共同の後見役になるといったように描かれてきた。しかし、兄弟は出席していなかったし、三法師が信忠の家督を継ぐのは当然で、後見役は秀吉や勝家などの宿老が担うことになったということらしい。そののち、秀吉たちは信雄に家督を継がせたというが、これも三法師を排除してというのもおかしな話で、その後見役ないし代理人に信雄がなったということか。
※賤ヶ岳の戦いまでの一連の流れのなかで、柴田勝家が信孝を擁立した経緯には、相当に無理があったようにみえる。しかし、主役は滝川一益だとみれば合理性があるのではないかと思い、ここではそういう解釈をしてみた。
※信孝の母の殺害については、あまり良質な記録がないのだが、この一連の事件の経緯のなかで死んだ可能性が強いことは確かだ。しかし、主君の側室を殺したとなると差し障りも大きく、少なくとも信孝が挙兵した途端に、秀吉の独断で磔にしたというのは不自然であり、信雄の指示ないし同意のもとだと見るのが妥当だろう。信孝の死については、そもそも信雄領である尾張でのことであって、秀吉とは関係ない。
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- イラスト:ウッケツハルコ







