秀吉念願の大坂城、天守閣の周りでは「街コン」ならぬ「城コン」開催?

家康を味方につけて高飛車な態度に出た信雄
賤ヶ岳の戦いのあとは、安土城に織田家の跡継ぎとしての三法師さまがおられ、その補佐役として、京都に近い山崎、のちには大坂の城に秀吉が、清洲には織田家当主代行のような信雄さまがおられるということになり、まがりなりにも織田家の内紛は収まったかに見えました。
賤ヶ岳の合戦が終わったあとの織田政権を現代の企業に例えれば、三法師さまは代表権のない社主みたいなものであることは、誰も異議がございませんでした。
ところが、問題はその次でございます。織田信雄さまは自分が社長で、秀吉は実力ナンバー1であることは認めるにせよ、あくまで副社長に過ぎないと考えました。
しかし、秀吉としては、信雄さまの家来扱いされる憶えはなかったのです。それに、信雄さまに織田一家を取りまとめる能力があるとは思えず、信雄さまが名目だけの会長で、自分が実力的にも社長といったくらいが精一杯、織田家を立てた形だと考えたのです。
足利義昭さまと信長さまの争いでもそうでございましたが、同じ方向を向いて一緒にやっていくつもりがあっても、互いの立場についてのわずかな主張の違いが、とんでもないお家騒動になるのは、現代の企業でも戦国武将の家中でも同じことでございます。
賤ヶ岳の戦いのあと、天正13年(1585年)の3月には、大津の園城寺(三井寺)で秀吉と信雄さまとの会談が行われたのですが、信雄さまは最初の会談のあと、暗殺をおそれて家臣たちを置き去りにしたまま伊勢長島へ逃げ帰られました。この頃、信雄さまは清洲よりも長島城がお気に入りだったのです。

そうしたところで信雄さまに取り入ったのが、徳川家康さまでございます。家康さまは、どういうわけかはよく知りませんが、信雄さまと信孝さまの争いでは、終始、信雄さま寄りでした。もしかすると、長男の信康さまの夫人だった徳姫さまと同母兄弟なので、接点が多かったのかもしれません。
それに、家康さまは本能寺の変のあとに、信長さまから家臣たちに与えられた甲斐や信濃を占領したわけですが、これを返せと言われる可能性もありましたから、それも心配だったのでございましょう。
天正10年(1582年)に武田勝頼さまが滅されたとき、信長さまは徳川家に駿河を差し上げられましたが、甲斐や信濃、上野の一部は織田家の武将たちに分配されました。厩橋など上野西部と信濃の佐久地方は滝川一益さま、信濃の北四郡は森長可さま、筑摩や木曾谷は木曾義昌さま、伊那は毛利秀頼さま、そして諏訪と甲斐三郡は河尻秀隆さまです。
ところが、本能寺の変のあと、北信濃は上杉に、上野は北条に取られましたが、残りは家康さまがちゃっかり横領してしまわれたのです。これを、旧領主である森・滝川・毛利などが根に持っていたのも当然でございます。
家康さまにしてみれば、信雄さまを籠絡する必要があったので「信長さまのご恩に報いるため、いつでもお力になります」と涙ながらに語られたのでしょう。
そこで信雄さまは、家康さまが味方してくれるというので、秀吉に対して高飛車に出られました。3月になって信雄さまは、秀吉に内通したとかの理由で、津川義冬さま、岡田重孝さま、浅井長時さまの3人の家老を斬殺されました。
津川義冬さまは、尾張守護だった斯波義統さまのお子で、正室は信雄さま正室である北畠氏の妹でございました。浅井長時さまは近江の浅井氏とは無関係です。
三家老殺害が、信雄さま側から秀吉への縁切りということになり、家康さまが(信雄さまのいる)尾張へ出陣されたのです。
この戦いでは、まず、家康さまがいち早く小牧山を占拠して本陣にされました。それに対して、秀吉は犬山城を本拠にいたしました。
開戦を悔いた信雄に官位官職を上手に用いた秀吉
このにらみ合いのなかで、池田恒興さまとその娘婿である森長可(もりながよし)さまが、尾張から家康軍が展開するより東側の間道を通って、三河へ攻め込もうという「中入り」作戦を提案されました。
森長可さまは、元亀の合戦で宇佐山城(大津市の近江神宮裏手)で戦死された森可成さまの子息で、信長さまの小姓だった森蘭丸さまの兄ですが、たいへん勇猛で、信長さまからはこの世代のホープだと扱われておりました。

信長さまからもらった北信濃を失った原因の1つが、家康さまが扇動した一揆にあったと、長可さまが考えていたのが背景にございました。秀吉は、信雄さまや家康さまと戦う際に、池田恒興さまには尾張と三河を、森長可さまには駿河と遠江を約束していたと聞いております。
ところが、この無謀な作戦は惨めにも失敗いたしました。池田信輝さまや長可さまは戦死、総大将だった(秀吉の甥である)三好秀次さまも危ないところでした。
三河中入り作戦の失敗で戦局は膠着したのですが、秀吉は着々と伊勢や美濃にある信雄さまの領地などを占領し、尾張の戦線に兵力を残したまま、自分は新しい城を築いた大坂に引き上げました。
そして、信雄さまの南伊勢の領地は、蒲生氏郷さまに切り取らせ、松ヶ島城主にしました。また、滝川一益さまにリベンジのチャンスを与えて、尾張の蟹江城を攻撃させたりいたしました(この作戦は失敗して一益さまは復活できなかったのですが)。
信雄さまは“勝てるいくさ”と思ったのに、自分の支配地は半減し、開戦したことを悔いるばかりでございました。そこで、秀吉が使ったのが、官位官職という餌です。この頃の秀吉は権大納言になっていたのですが、信雄さまにも同じ地位を差し上げるように手配いたしました。
その何ヶ月かのちに、秀吉は自分が内大臣となって差をつけたのですが、いったん同じにするというのが、人事が上手と言われた秀吉の真骨頂でございました。
信雄さまは、さらに翌年には内大臣に昇格されましたので、天正18年(1590年)に家康さまを関東に移したあと、それまでの領地に信雄さまを移そうと秀吉がしたのを拒否されて、改易されるまでは官位も徳川家康さま、(秀吉の弟の)豊臣秀長さま、秀次さまより上で、豊臣政権のナンバー2だったのでございます。
信雄さまは、もとの領地のうち南伊勢などは別にして戻してもらいましたが、犬山城など軍事上の要衝を差し出されました。また、小姫という娘を秀吉のもとに養女という名目の人質に出したのです。のちに徳川秀忠さまの許嫁になる姫でございます(夭折されたので代わりに結婚したのがお市さまの三女である江です)。
※織田家家臣団を見ると、信長(1534年生まれ)世代の主だったところでは、1522年生まれの柴田勝家、1525年の滝川一益、1528年の明智光秀と佐久間信盛、 1535年の丹羽長秀、1536年の池田恒興、1537年の豊臣秀吉、1539年の前田利家といったところだ。そのあと1540年代生まれに目立った存在はなく、1557年生まれの織田信忠世代には、1553年生まれの堀秀政、1554年の佐久間盛政、1556年の蒲生氏郷、1558年の森長可、1562年の前田利長、1563年生まれの細川忠興などとなる。このうち1550年代生まれの4人が秀吉より先に死んだのも、徳川家康の天下取りを助けた。
※森長可の兄の可隆は、朝倉攻めで戦死、弟の蘭丸と坊丸、力丸は本能寺の変で戦死し、末弟の忠政のみが残り、美濃金山、川中島を経て関ケ原後には美作の国主となった。子孫は赤穂藩主。
※大坂は明治になって大阪に表記が統一された。このために、歴史を語るときには大坂城なのだが、現代の施設名としては、大阪城天守閣、大阪城公園である。
- 写真 :
- クロチャン / PIXTA
- 自由入力 :
- イラスト:ウッケツハルコ







