寧々と茶々、嫁バトルのきっかけは「黒百合」にあり?

山盛りの黒百合で寧々に赤っ恥をかかせた茶々
これと平行して、秀吉は北国征伐の軍を出して、越中の佐々成政さまを攻めました。佐々成政さまは、信長さまから武勇を称賛され、越前で柴田勝家さまの与力として、前田利家さまや不破光治さまと府中三人衆として越前南部を領地とし、さらに越中を任された方です。
賤ヶ岳の戦いでは柴田さまに与されましたが、越中で上杉勢とにらみ合っておられたので、秀吉は越中を安堵したのです。ところが、小牧長久手の戦いでは信雄さまや家康さまに付かれ、さらに天正12年の暮れには、家康さまや信雄さまに秀吉と講和せず叩き続けるように説得するために、厳冬の立山連峰を越えて浜松にまで出向かれたそうです。
そこで、秀吉は四国攻めが終わったあと北国征伐にかかり、8月には自ら出陣したので、その月の終わりごろには成政さまも降伏されました。秀吉は新川郡(富山市付近)だけを領地として残し、成政さまを大坂に住ませてお伽衆といたしました。
ところで、この成政さまは、越中特産の黒百合にまつわる伝説がいくつかございます。そのひとつは、成政さまの愛妾の小百合姫の不義を疑って処刑されたときに、小百合姫は「立山に黒百合の花が咲いたら、佐々家は滅亡する」と呪いの言葉を残して死んだというものです。
もうひとつは、私のところに成政さまから黒百合のプレゼントがあり、私が喜んでそれを飾って茶会を開くと、茶々が山盛りの黒百合を取り寄せ飾って恥をかかせたので、私が怒って、のちの成政さまの非業の死の原因になったというものです。茶々も秀頼を生んだあとになると扱いにくくなってきましたが、この頃はまだ大人しいもので、私と張り合うようなことはございませんでしたし、私がそんな執念深いといわれる憶えもありません。

ところで、於義丸(秀康)が人質になったことなどを話したついでに、德川家康さまのこと、とくにそのご家庭のことなどについて、私が聞いていた話をお聞かせいたしましょう。
家康さまが、清和源氏の新田一族だというのは、家康さまが将軍になりたいための作り話だという方もおりますが、さすがにそんなのは嘘でしょう。というのは、松平家の先祖である親氏さまは時宗の僧侶で、応永年間に三河国に流れてきて、はじめ酒井氏の、ついで加茂郡の山間(豊田市)の松平氏の入り婿となり土着されたそうです。
その頃から、自分は上野国新田郡の新田一族で、世良田あるいは徳川と名乗っていたが戦乱で国を離れた、と言っていたようです。親氏さまの身の上話が本当かどうかはわかりません。
家康さまも、のちに関東に移られたときに、美智子上皇后さまの先祖である生田という土地の有力者を呼んで、詳しい情報はないかお尋ねになったそうですが、よくわからずじまいだったようです。それでも世良田には東照宮が建てられました。
そののち、親氏さまの孫の信光さまが勢力を拡大され、幕府奉公の有力者で三河に領地を持っていた伊勢氏に仕えられ、そのつながりであちこちで傭兵稼業をされていたのです。たとえば、近江伊香郡の菅浦という美しい漁村には、松平家のご先祖の記録が残っております。
この信光さまをはじめ、松平家の方々は子だくさんで、結婚を通じて西三河全域に勢力を伸ばしました。ただし、どこが本家かもはっきりしませんでしたし、守護代というきちんとした地位にあったのではありません。
ただ、家康さまの祖父である清康さまは早熟で、西三河の支配者のようになり、尾張に進出しようとして名古屋の北の守山まで出陣されたのですが、ここで家来に裏切られて殺されました。
そのあと、織田家と連合しようとする勢力と、駿河の今川家に後押しされた清康さまの嫡男・広忠さまが対立したのですが、その広忠さまも家来に叛かれて亡くなられ、まだ子どもだった家康さまは駿府で保護され、岡崎城は今川氏の代官が治めたのです。
桶狭間の戦いでは、家康さまは先鋒隊として活躍されたのですが、今川義元さまが桶狭間で討たれたのちは、駿府に帰らず岡崎城に留まられました。そして、最初は織田方と小競り合いもされましたが、母親(於大さま)の兄である水野信元さまの仲介で、信長さまとの同盟に踏み切られました。ただし、今川と完全手切れだったのではありません。
このとき、家康さまの奥方の築山殿は、長男の信康さまと長女の亀姫さまと一緒に、駿府で実家の関口親永さまのもとにおられました。家康さまは妻子を岡崎に呼ぶため、今川と硬軟織り交ぜて交渉され、なんとか成功されました。
ただ、家康の母である於大さまが築山殿たちを岡崎城に入れなかったとか、関口夫妻は今川氏真さまの不興をかって殺されてしまうなど、いろいろあったのです。
それでも、信康さまは勇猛な武将として育たれ、信長さまの長女である徳姫さまと結婚されました。そして家康さまは浜松に移られ、信康夫妻と築山殿は岡崎に残られました。
家康が実子を跡取りにしなかった理由
ところが天正7年(1579年)になって、家康さまは、信康さまを廃嫡のうえ切腹を命じられ、築山殿は斬殺されるという事件が起きます。聞くところでは、浜松の家康さまと、岡崎の信康さまの周辺同士が対立されるようなことになり、築山殿が武田方と組んで家康さまから信康さまへの代替わりを策されたそうなのです。

これには、関口夫妻を見殺しにされた築山殿や信康さまの恨みもあったでしょうし、もうひとつは、家康さまは家臣にあまり人気のない殿様だったということがあります。なにしろケチですし、慎重すぎて信長さまに卑屈だというのも不満のタネになっていました。
一方、信康さまは粗暴なところもあったものの、戦国武将としては常識の範囲でしたし、勇敢で人情に厚いところもございました。それに、家康さまと信康さまは、わずか16歳しか年齢が違わず、親子というよりは兄弟のようなものでしたから、家康さまにも遠慮がなかったのです。
於義丸は、家康さまが築山殿の侍女に手を付けて生まれたのですが、家康さまは自分の子かどうか自信がなく、認知されなかったのです。それを信康さまが不憫に思って、強引に家康さまに認めさせたと、於義丸が人質として大坂城に住んでいる頃に聞きました。
また、家康さまが目付役でつけておいた榊原康政や酒井忠次の諫言も聞かなくなり、家康さまも困られたようです。
そして、娘がふたり続いて男子が生まれないというので、築山殿が徳姫さまにもツラく当たり、側室を置くように勧めたとかあって、徳姫さまが怒りだしました。
結局、家康さまは、酒井忠次に徳姫さまからの手紙を持たせて、信康さまの義父に当たる信長さまに廃嫡について相談されたところ、信長さまは「忠次殿も徳姫のいっているような裏切りや狼藉が本当だというなら仕方あるまい」とおっしゃったのだそうです。
そこで、忠次は岡崎を素通りして浜松へ向かい、家康さまはただちに岡崎に乗り込んで、信康さまに謹慎を命じ、家臣たちに音信を禁じました。それでも、死を命じるのには少し躊躇があったようですが、4週間ほどのちには築山殿を殺すように家来に命じ、さらに半月ほどして信康さまも切腹するように命令されました。
信長さまから、廃嫡するなら生かしておかないほうがいい、というアドバイスがあったという噂も聞いております。
徳姫さまは、しばらくして信長さまのもとに送られ、安土城の近くに住まわれ、長命寺周辺を化粧料とされていました。本能寺の変ののちには、尾張の信雄さまのところに引き取られ、小牧長久手の戦いのあとは、信雄さまの人質として秀吉のもとに送られてきたこともあって、私もお会いしたことがございます。
於義丸は大坂城で人質としてやってきたので、宇喜多秀家などと一緒にわんぱくぶりを発揮しておりました。ただ、乗馬しているときに、並んで駆けていた武士を「関白殿下の子と並んで走るとは何事か!」とかいって手討ちにしたのには、閉口いたしました。当時の理屈としては、あり得ないことでなく、罰するわけにはいきませんでしたが、これでは慎重な家康さまが跡継ぎにされなかったのも頷けると思ったのでございます。
※四国では阿波や讃岐の三好勢、伊予の河野、土佐の長宗我部の三勢力をどのように調整するかが問題だった。織田信長が長宗我部から三好に乗り換えたことが、明智光秀の謀反の原因の1つと言われていることは紹介した。信長は、最初は長宗我部が光秀を通じて誼を通じてきたので、切り取り放題、つまり三好勢の支配地を好きなように奪っていいとしたのだが、のちに三好勢と和解して、神戸信孝を総大将にして四国攻めに出発しようとされたところで本能寺の変が起きた。
※徳川家康にとって、旭との結婚は秀吉の義兄弟として高い地位につくことにもなり、その口実としてどうしても必要だったわけで、家康にとってもそれを受けるメリットは大きかったので、いやいやというわけでもなかった。
※徳姫は尾張に戻り、母親の吉乃の故郷である小折にいたこともあるともいう。最後はまた京に戻り78歳まで存命だった。2人の姫は家康のもとに残され、のちに小笠原秀政と本多忠政と結婚した。いずれもたくさんの子や孫に恵まれ、彼らとは隠棲してからも交流があった。
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- イラスト:ウッケツハルコ







