大坂のドンファン!? 秀吉の女遊びを見て見ぬ振りする寧々

大名の姫や妹を側室にしまくる秀吉
秀勝が死んだので、私たち豊臣家には、跡継ぎというものがなくなってしまいました。即戦力なら秀長がおりますが、男の子がいませんから、中継ぎにしかなりませんし、体調もそれほどよくありませんでした。姉のともの子どもたちも、まだ海の物とも山の物ともわかりません。
そこで、正親町天皇の子である智仁王(桂離宮を作った人です)を、天正14年(1586年)に猶子とやらにして、万が一の場合には、臨時に関白にするという備えもいたしました。
また、秀吉の姉のともの子である小吉を養子にして、秀勝を名乗らせ、亀山の城と家臣たちを引き継がせました。
ちょうどこの頃、竜子を側室にしても私とそれほど面倒が起こらなかったことに味を占めた秀吉は、どこどこの姫だ、妹だ、というのを片っ端から側室にするようになりました。天下を収めるために役に立つというのでございます。
確かに、大名からすれば、秀吉の元に身内が側室でいたら、いわば保険をかけることになりますし、また政権周辺の情報なども得ることができますから、実利はあったのです。
そうしたなかで、秀吉はお市さまの忘れ形見だった茶々を側室にしてしまったのです。この茶々と初(京極高次の妻)と末娘の江は、天正15年(1587年)には、それぞれ、18歳、14歳、11歳でございました。

このうち、江については、尾張の佐治一成のもとへ早くから輿入れさせられておりました。輿入れといっても、婚約したうえで養女として育てられるというイメージでございます。そういうケースは、この時代によくあったのです。
佐治一成の母親は、お市さまの同母姉妹のお犬の方です。夫が死んだあと細川京兆家の昭元さまと結婚されていましたが、佐治家に残した息子のことを気がかりにされていましたから、織田一族の江と一緒にするというのは、よいアイデアでございました。(※)
ところが、小牧長久手の戦いのときに、家康さまが三河に退却されるに際して、一成が船の手配をしたというので秀吉の怒りを買って離縁することになります。いずれにせよ、末娘の江が、先に結婚したというのはそういう事情ですから、とくに不思議ではありません。
茶々の妊娠は秀吉にとって渡りに船だった
茶々が秀吉の側室になったのと、初が京極高次と結婚したのは、それほど離れた時期でありません。竜子が秀吉の側室になったので、兄の高次の運も開けました。
高次たちの父である高吉は、浅井の名目上の主君であり客分のような立場でしたが、長政と信長さまが手切れとなったときは、たまたま足利義昭さまのもとにおられたので、長政とは対立することになり、義昭さまと信長さまが離れられたときは信長さまに付きました。
そして、浅井滅亡後の元亀4年(1573年)には、近江支配を円滑にするために少しは役に立つということになったのでしょうか、先祖以来の江北の地ではありませんが、安土に近い奥島で5,000石が高次に与えられました。
ところが、本能寺の変で信長さまが明智光秀さまに討たれると、高次は妹の竜子が嫁いでいた若狭の武田元明さまと共に光秀さまに与して、秀吉の居城である長浜城を攻めたので、戦後は身を潜めなければなりませんでした。しかし、元明さまと違ってなんとか身を隠すことに成功し、一時は柴田勝家さまに匿われていました。
しかし、妹の竜子が秀吉の側室になったことからか、秀吉に仕えることとなり、天正12年(1584年)に近江高島郡2,500石、翌々年には高島郡5,000石、同年の九州攻めに参加して高島郡大溝10,000石を与えらました。
なにしろ、竜子の立場からしたら、兄弟や姉妹たちのことが気がかりですから、秀吉や私に取り立てや良い縁組みを頼んできましたし、私も口添えをしてやりました。また、浅井三姉妹は従姉妹ですから、母親の京極マリアから良い縁組みを頼まれてもいました。
そこへ、秀勝が死んだりして織田家との縁が薄くなるのを気にしていた秀吉が、茶々を側室にしたのは、そんなに不自然ではございません。
さらに、秀吉は「茶々とのあいだに子どもができたら、織田の血を引いているから好都合だ」と言っておりましたが、私はそれは口実だろうと割り切ってましたので、それが現実になろうとは想像してませんでした。
竜子にすれば、従姉妹で若い茶々が側室になるのは、複雑な思いでもありましたが、一族の繁栄のためには、良いことであるのは確かでした。なにしろ、竜子の母のマリアは気の強い女性で、竜子に姪である三姉妹の縁談がうまくいくようにしつこく頼んでいました。茶々にしても、従姉妹の竜子が大事にされているのを見ておりますから、嫌だったわけではないようでございました。
一方、次女の初は、竜子の弟の高次と結婚いたしました。これは、高次が5,000石の時代です。大名になったときは、初の夫で、竜子の兄弟だからだということで、お尻の光のおかげという意味で「蛍大名」などと揶揄されたこともあったと聞きます。ただ、高次はあまりそんなことを気にする人ではありませんでした。

生まれ育ちが良い人特有の少しつかみどころがないところはありますが、姉妹である竜子に似た美男子ですから、私から初に話したところ大喜びでした。
そして、佐治一成のところから戻ってきていた江は、秀吉の養子になった秀勝と結婚することになりました。
そして、茶々がなんと妊娠したのです。子どもができなかった秀吉に、子ができたというのは驚きでございましたが、茶々の両親の浅井家も織田家も子だくさんの家柄で、とても体が丈夫でしたから、その意味では“もしかして”という期待はあったわけです。
秀吉は茶々に淀城を築いて与え、鶴松が生まれた年の12月には、父である浅井長政の一七回忌、母であるお市の方の七回忌の追善供養を行うことが許可されました。高野山持明院にある長政とお市の有名な肖像画は、このときに奉納したもので、たいへんよく描けていると評判になったものでございます。
※武田元明と竜子のあいだに子どもがいたかどうかは諸説あって不明である。もしかすると丹羽長秀の手で殺されたかもしれない。
※すでに書いたことがあるが、長浜時代に側室だったとみられる南殿という女性が奉加帳などに出てくるし、実子か養子かわからないが、秀勝という子がいたのも確かである。しかし、この女性についてはまったく情報がないし、秀勝の母だという根拠もない。ここでは秀勝の母ではなく、京都での現地妻だったという仮定で書いているが、これもあくまでの仮説でしかない。
※冬姫と、しばしば呼ばれている蒲生氏郷夫人の母も養観院の可能性が強い。墓が同じ所にあることと、氏郷が早くから秀吉に忠実だったことが説明しやすい。
※細川昭元は、管領・細川晴元の子で、母は六角定頼の娘。お犬の方は細川昭元と再婚してから元勝という男子と娘を産んでいる。娘は秋田氏(最終的には福島県三春藩主)と結婚した。元勝は秀頼に仕え大坂夏の陣でも豊臣方にあったが助命されて、子孫は三春藩で家臣主席となった。貴種を石高は低くても、序列上は上位に付けることは多く、上杉氏の米沢藩では武田氏が最上席だった。
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- ogurisu_Q / PIXTA
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- イラスト:ウッケツハルコ







