「奈良よりも大きなものを作れ!」秀吉が発注した幻の大仏

京の町家がウナギの寝床といわれる理由
秀吉は、この聚楽第の建設を始め、京都をあたかも城下町のように再開発いたしました。1591年には町全体を「御土居(おどい)」と呼ばれる巨大な土塁と、お堀からなる城壁で囲って、出入りは京の七口といわれる城門を通ってするようにしたのです。
高さ5メートル、基底部は幅10メートルほどありました。七口は、粟田口・東寺口・丹波口・鞍馬口・大原口・荒神口、長坂口などです。ただし、七つしか出入り口がなかったわけではなく、七口にどれを含めるか諸説ございます。
御土居で囲まれたのは、おおよそ平安京の東半分ですが、地形の関係で北側は、のちに本阿弥光悦の隠棲地となり、庭園が有名な光悦寺がある鷹峯のあたりまで築かれました。また北野天満宮も御土居に囲いこまれております。

鴨川沿いにある御土居は、鴨川自体が防御線になるので早くに撤去されてしまいましたし、明治になって次々に壊されていきました。京都駅も御土居の上に設置されました。
現存する御土居10カ所が史跡に指定されておりますが、手軽に御土居を見ることができるのは、鷹峯のあたりと北野天満宮の梅林のなかです。また、町名として、北区紫野西土居町、大宮土居町、中京区壬生土居ノ内町などが残ってございます。
さらに寺の多くを、寺町(新京極の近く)や寺の内(茶道の表千家・裏千家のあたり)に集中させました。あの本能寺も、事件があったときの四条西洞院界隈から、京都市役所に近い寺町通りに移りました。
公家屋敷も、内裏の周りに集めました。のちに説明いたしますが、伏見宮家は文字どおり伏見に屋敷があったのですが、これを秀吉は最初の伏見城とするために買い取り、代わりに現在の同志社女子大学の場所に移ってもらいました。
また、平安京では一区画が約140メートル四方でした。ところが、これだと真ん中に大きな空き地ができてしまいます。
そこで秀吉は、南北に限りもう1本の道路を開いたのです。このおかげで東西70メートルの区画ができ、そこに細長い家が背中を合わせることになりました。これが京の町家がウナギの寝床といわれる理由なのです。
このように農地など少なくして密集した形にしたほうが、お堀や石垣の延長距離が短い外郭のわりには、多くの人口を収容できるので好都合だったわけです。
こうした町全体を囲い込むような町造りが得意だったのが、黒田官兵衛さまでございまして、京都・大坂・広島・高松・博多・中津など、いずれも官兵衛風の城下町といって良いと思います。
城そのものに壮大な石垣などつくるより、城下町全体の防衛を考えればよいというのが官兵衛流なのです。
よく「京」を名乗れるのはどの範囲かとか、洛中と洛外の境界はどこかとかいいますが、どうも今でも御土居の内外がひとつの目安のようでございます。
完成した翌年に壊れてしまった秀吉が建てた大仏
もうひとつの大工事が、方広寺の大仏建立でございます。秀吉は比叡山延暦寺の復興を手伝いましたし、本願寺の顕如さまにも大坂天満に戻ってきていただきました。その裏方の如春尼は、三条家からお輿入れになった方で、武田信玄夫人と姉妹でございました。
私は大坂時代から、この方とはたいへん親しい間柄になっていましたので、京への引越しを前に、この難しい町の流儀をいろいろと教えてくださいました。
秀吉のところには、奈良東大寺の大仏を再建するのは、平家に焼かれた大仏を源頼朝さまが再建された先例もあり、天下人にふさわしいというお誘いもあったのですが、秀吉は奈良のものを再建するくらいなら、新しい大仏を京につくったほうがいいと思ったわけです。
最初は九条家がつくった寺である、東福寺の近くを考えたのですが、京の町を飾るには、もっと都心に近い三十三間堂の北側がよいとか言いだしました。
ここには浄土真宗の仏光寺があったのですが、秀吉は四条通の南にある現在地へ引っ越しさせました。大仏殿の場所は現在、豊国神社になっているところです。
現在では東大路が洛東の中心的な道でございますが、当時は大和大路で、これも西側に東山を背にするように建て、大和大路は伏見街道につながるようになりました。また、正面には正面通りを開きました。
同時に、五条通りを現在の松原通から六条坊門(五条と六条の間の通り)に移して立派な橋をかけ、京の民が参詣しやすいようにいたしました。境内は、妙法院・豊国神社・京都国立博物館・三十三間堂の敷地も含む広大なもので、国立博物館西側の大きな石を積んだ石垣は、大仏殿の石垣でございました。
三十三間堂の太閤塀や南大門、移築された東寺の南大門も、もともとこのお寺のものでございます。
ブロンズでと思ったのですが、木造のほうが早くできると聞いて、そちらにいたしました。ただし、大きさは奈良のものより大きいものをというのが秀吉の注文で、高さが19メートルございました。
しかし、完成した翌年の地震で壊れてしまい、秀吉は都を鎮護するはずが、自分が倒れるようでは御利益も何もないと立腹して、当時は甲府にあった信濃善光寺のご本尊をここに移して代わりにいたしました。
秀吉の死んだあとの話になりますが、秀吉が死んでから、秀頼がブロンズで大仏を作ろうとしたのですが、鋳造作業のミスで倒れていなかった大仏殿までが焼けてしまい、慶長13年(1608年)から再建工事にかかりました。この鐘の銘文が大坂の陣のきっかけになってしまったことは、またお話しいたします。
それでも大仏まで壊すことは徳川もできなかったのですが、寛文2年(1662年)の地震で、またもや大仏が壊れ、寛永通宝の材料に使われて、かわりに木造の大仏がつくられました。しかし、こちらも寛政10年(1798年)に落雷が大仏殿に落ちて全てが焼けてしまいました。

しかし、奈良の大仏より大きい方広寺の大仏は、幕末に近い時代まで残っておりまして、弥次喜多道中で知られる「東海道中膝栗毛」に登場する大仏さまは、奈良でなく方広寺の大仏なのでございます。
※聚楽第の遺構は、伏見城建設などに多くが転用されたらしく、伏見城が関ケ原の戦いの前夜戦でほとんど焼けたので、そのときにほとんど失われたようだ。ただ大徳寺の唐門は、どうやら聚楽第関連施設のものらしい。また、西本願寺飛雲閣に似た建物が、当時の屏風に描かれているので、もしや、とも言われている。そうではないと思われる理由もいろいろあるが、似たものがあったのは事実だ。また、同じ屏風には四層と思われる華麗な天守閣が描かれている。
※『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来は、インドから朝鮮半島百済国へと渡り、欽明天皇13年(552)、仏教伝来の際に百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像と言われている。ただし、秘仏であって誰も見たことはないとされている。本尊は武田氏が織田信長に滅ぼされたあと、織田信忠によって伊奈波(善光寺 (岐阜市))へ、本能寺の変のあとには織田信雄により尾張国甚目寺へ、譲り受けた徳川家康の手で遠江国鴨江寺、後に甲斐善光寺へと転々とした。1597年(慶長2年)には豊臣秀吉の命令で、甲斐から京都の方広寺へと移されたが、1598年(慶長3年)に秀吉の病は本尊の祟りであるという噂から、死の前日に信濃へ帰された。
- 写真 :
- HAYABUSA / PIXTA
- 自由入力 :
- イラスト:ウッケツハルコ







