家康は行きたくなかった江戸へ…天下統一をした秀吉の大名人事

織田家に気を遣う必要がなくなり信雄は隠居へ
蒲生氏郷は近江蒲生郡日野の出身で、奥方は信長さまの次女の冬姫さまで、私たちの養子だった秀勝の同母姉でございます。氏郷は黒川を近江の故郷にある地名からとった若松にあらためて、東北一といわれる若松城をつくりました。

今では、会津若松といいますが、会津は郡の名前です。かつては若松市といったのですが、現在は北九州市の一部になっている福岡県の若松市と間違われることが多いので、会津を付けて町の名前の一部になったのだそうです。
蒲生氏郷は、南部信直の嫡子・利直の夫人に自分の娘を送り込み、信直の領地がこれまでより南に移動したことで、新しい本拠地にすることにした盛岡城の築城も手伝いました。盛岡城が東北の城にしては珍しく、土塁が主体でなく立派な石垣でできているのは、氏郷が手を差し伸べたそのためです。
家康さまの関東への移封で、秀吉は尾張と伊勢北部を領地にしていた内大臣の織田信雄さまを、玉突き式に家康さまの旧領に移そうとしました。石高でいうと五割増しくらいになるはずでございました。
ところが信雄さまは、先祖の地である尾張を離れるのはいやだと言い張り、加増してもらえるなら美濃が欲しいと厚かましく仰ったとも聞いております。
怒ったのは秀吉です。小田原の陣のときも、あわよくば、徳川や北条と組んで反秀吉に立ち上がるという噂が流れたときにも、信雄さまは疑いを晴らすために十分な努力をしなかったので微妙な雰囲気だったのに、この厚遇の申し出をにべもなく断ったのですから、秀吉も堪忍袋の緒が切れたのです。
もっとも、これには織田家のなかでの世代交代の時期が来た、ということでもありました。かつて三法師と呼ばれていた信忠さまの忘れ形見である秀信さまも11歳になり、従四位下侍従になっておられました。
こちらに織田家の家督を継がせるためにも、そろそろ信雄さまは退場の時期になっていたのです。現代の会社でも、創業者の嫡系の孫が成人したので、叔父さんの副社長には相談役になっていただくのはよくある話でございます。
それに茶々が生んだ鶴松は、織田家の血を引いておりましたから、秀吉もそれほど織田家に気を遣う必要がなくなっていた、ということもございました。

とりあえず、信雄さまは下野に流されましたが、まもなく許されて、秀吉のお伽衆となり、隠居料ももらい、嫡男の秀雄さまも越前大野城主に取り立てられることになりました。石高は減っても官位は変わりませんし、面倒を見なければならない家来も減ってますから、そんな悪い話ではありません。
見事な松本城を築いた石川数正
信雄さまがおられなくなったので、尾張と清洲城は甥の秀次に与えられました。秀次はそれまで、近江の八幡山城主でした。これは安土城が移転したものです。
安土城は、大中之湖という琵琶湖の沿岸にできた内湖に面しています。ところが、信長さまの頃に北側の愛知川の流路を洪水対策のために変えたところ、大中之湖の入り口に砂が溜まり、船の出入りに支障が出るようになったのです。
そこで、秀次は少し西にあって、琵琶湖とは西側でもつながる現在の近江八幡に城を移したのです。新しい城を築いたときに、古い城下町もそのまま残すことも多いのですが、清洲から名古屋とか、安土から八幡山といった場合には、一軒残らず引越しをさせたので、安土の古い町並みは残っていないのです。
しかし、秀次はのちに関白になりますので、尾張を治めるのは両親の三好吉房と秀吉の姉である“とも”に任されることになります。八幡山には、とりあえず京極高次が入りました。
そして、家康さまの旧領では、岡崎は田中吉政、吉田(豊橋)は池田輝政、浜松は堀尾吉晴、掛川は山内一豊、駿府は中村一氏に与えられました。
甲斐は、秀次の弟の小吉秀勝にいったん与えられましたが、秀勝は1年で岐阜城主になり、そのあとは加藤光泰、浅野長政が入ります。
信濃では、家康のところから出奔して秀吉の家臣になった石川数正が松本に入って、今に残る見事な松本城を築きました。

越後には引き続き上杉景勝さまがおられ、山形県の庄内地方も領有が認められました。
加賀・越中・能登は、前田利家さまとそのお子たちの領地でございました。
そして、越前には堀秀政さまがいたのですが、小田原の陣中で亡くなりました。しかし、この家中には家老の堀直政など優れた家臣もいたのでそのままにしました。加賀の小松は、丹羽長秀さまのお子の長重さまの領地でした。敦賀は大谷吉継に与えられました。
そして、大和・紀伊・和泉は秀長の領地でしたが、この頃から病気がちになりました。秀吉にとって、秀長はかけがいのない補佐役だったので困ったことになってきました。
また、丹後には引き続き細川幽斎さまと忠興さまの親子がおられました。丹波亀山は秀吉の京奉行をつとめる前田玄以さま、但馬出石には秀次の家老格の前野長康さま、播磨の姫路には私の兄の木下家定がおりました。
中国地方に移りますと、備前・美作・備中半国は、宇喜多秀家の領地で、夫人は前田利家のまつさまから私たちが養女にもらって大事に育てた、豪姫が嫁ぎました。このことで、宇喜多夫妻は私たちの家族という扱いになりました。
中国地方の大半は、毛利輝元さまがそのまま収められました。居城は山間の郡山城でしたが、太田川の河口に現在の広島城を築いて移られました。なんでも聚楽第に似せて築かれた平城で、お堀に鯉がたくさんいて鯉城といいますが、これが広島カープの名前の起こりでございます。

※これまでにも説明してきたことがあるが、普通にいわれる石高は関ケ原の戦いののちに各大名が検地し、幕府とも相談のうえで決めたものを幕末まで実収が増えてもそのまま使うことが一般的だった。最初の全国的検地は太閤検地で、そのときの石高は、たとえばWikipediaなどにも載っている慶長の石高だ。それ以前は、検地も地域的に徐々に検地が行われたが、この土地は何万石といってもいい加減なものだったから、秀吉がどこそこ何万石を与えたとの言い方はおかしい。
※堀秀政は、蒲生氏郷などとともに織田軍団第二世代のホープで、丹羽長秀の死後には越前北ノ庄の太守となったが、小田原の陣の陣中で死去。子の堀秀治は越後国主となったが、子の忠俊のとき、内紛のために改易。秀政次男の堀親良の系統は信濃飯田藩主。幕末には、越後村松、信濃須坂、越後椎谷の殿様が堀氏だったが、いずれも堀家の家老だった堀直政の子孫。直政は秀政の従兄弟で本姓は奥田。直政の子の直寄は、長岡や新潟の創始者で村上も彼の手で今日の姿になった。
※織田信雄のような太守が改易されてお伽衆になるのは、廃藩置県のあとの大名みたいなもの。領地を離れて家来も解雇し、秀吉を囲む華族のようになって、贅沢して暮らせるだけの領地はもらえた。儀礼的には織田信雄も内大臣待遇だったわけで個人的には悪い話でもなかった。
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- shimanto / PIXTA
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- イラスト:ウッケツハルコ







