プライドの高さが仇! 秀吉が千利休に切腹を命じた真相

南蛮船がやって来た大航海時代
千利休さまが切腹したのは、天正19年(1951年)の2月です。この頃、鶴松は何度も病にかかり、秀吉はあちこちに祈祷などさせましたが、8月に淀城で亡くなってしまいました。
秀吉は淀城で最期を看取ると、髻を落とし、鶴松の遺骸を運んだ東福寺に籠もってしまいました。
そして、心の準備はできていたので、ただちに甥の秀次を養子にして跡継ぎにする支度にかかりました。この頃、秀次は東北での「九戸の乱」の鎮圧に出向いておりました。取り立ててすぐれているわけでありませんが、よく学問も修め、朝廷や公家衆、寺社との付き合いにも不安がなく、なんとかやっていけるだろうとみたようです。
また、姉の「なか」と三好吉房との三人の子のうち、長男・秀次と三男・秀保(秀長の養子)のあいだの小吉秀勝も、九州遠征での恩賞について不満を言って謹慎させられたりしていましたが、この頃には美濃の大垣、ついで岐阜城主となり、茶々の妹の江と結婚しました。
11月には秀次を正式に養子にして、権大納言とし、12月4日には内大臣となりました。そして18日には秀吉が関白を辞任し、秀次が関白になり、聚楽第も譲りました。
この頃までに、京の町を聚楽第の城下町として作り直す計画も進んだことは、以前に紹介いたしましたが、本願寺を堀川七条に移したことで南部の開発が進んだのも目立つ変化でございました。
さっそく秀次は、後陽成天皇の行幸を仰ぎ、左大臣になりました。このことは、豊臣が関白になるのは一代限りと思っていた近衛信輔さまにとっては、おおいに不満だったようでございます。
この頃、毛利家でも、輝元さまに跡継ぎがおられないことから、甥の秀元を養子にして、亡き秀長の娘と縁組みさせることになりました。ただし、もし輝元さまに実子ができたら、そちらが跡取りになり、秀元は領地のしかるべき部分をもらって独立大名になるということになっていたそうです。
秀吉も、秀次さまとのあいだでそういうことにしておけば良かったのですが、もう子どもが生まれることもあるまいと秀吉が決めてかかったことが、あとで不幸のタネとなりました。
秀吉が朝鮮や明への出兵を考え始めたのは、いつからというものでもありません。信長さまも、そのつもりでおられたので、それを引き継いだ秀吉にとっても当然のことでした。
ただし、具体的にどのようなイメージかは、それほどはっきりしていませんでした。いわば、会社が大きくなって、全国でのチェーン展開も一段落ついたら、今度は海外進出かというようなことでした。
どうしてそうかといえば、企業を拡大して大きくするというのは、経営者にとって普通の気持ちですし、海外進出がひとつの勲章みたいなものであるのも、経営者を海外市場へ駆り立てる動機のひとつです。
また、日本にも南蛮船がやって来た大航海時代でしたので、そういった世界の国々の交流が活発になった時代だという雰囲気に、影響されたということもございます。

そして、令和の企業経営者でも、どの国に、どんなかたちで進出するかは、最初から決めているわけでもないと思います。100パーセント子会社による直接投資だけでなく、合弁会社であったり、提携関係だったり、貿易だけに留めるかなど、選択肢はいろいろあるわけで、相手先の出方も見ながら決めるのが普通でしょう。
そして、提携だけでなく直接投資するとなると、社内でも消極的な人も出ます。慣れない海外進出は失敗も多いだろうし、自分自身も海外勤務は給料が上がっても嫌だという人もたくさんいます。
秀吉の家臣たちでも、喜び勇んでという者もいましたし、どうしてまた慣れない異国の地に行かねばならないかと嫌がる者もいました。もう少し慎重にしたほうがいいのにと思う者が多かったのは当たり前のことで、消極的な家臣がいたから秀吉の計画が無謀だったというのもおかしいと思います。
海外との関係を新しく作りたかった秀吉
この時代の世界の様子は、次回にお話しいたしますが、日本側の事情について言えば、江戸時代の人々と違って海外に対する関心は旺盛でございました。
日本の歴史を振り返ると、時代によって海外への関心は違います。秀吉の時代から千年ほど前の帝のご先祖は、中国の皇帝に出した手紙で「私の祖先は、みずから甲冑を身につけ、山川を跋渉し、ひとところに安んじて留まる暇はありませんでした。大和から出て、東の方は毛人の五十五国を征し、西の方は衆夷六十六国を征服し、海を渡って北の九十五国を平らげました」と書いておられました。
つまり、東日本と西日本と朝鮮半島を征服したと仰っていたわけで、その頃の日本は半島の南部から関東地方までだったわけです。
しかし、その後、半島では百済や新羅のような地元勢力が強くなり、さらに、日本と手を組んだ高句麗や百済が、中国と組んだ新羅に負けて、日本は撤退しました。
そこで、むしろ、列島内の東北方面に勢力を拡大することに力を入れましたが、その中心になった人々の子孫が、関東武士でございます。
源平の争いでは、武士のなかで西日本に勢力を伸ばし、中国との貿易に熱心だった平家がはじめ強かったのですが、貿易での儲けが減るような経済変動もあって、関東武士が天下をとりました。NHK大河ドラマの『鎌倉殿の13人』の時代です。
鎌倉時代には、中国の北のモンゴル人が、高麗や中国の人々を束ねて日本を支配下に置こうと攻めてきましたが、なんとか撃退しました。
そして室町時代には、政府の支配下に入らない西日本の人たちが、元寇の仕返しということから出発して、朝鮮半島や中国の沿岸を荒らし回り、それに中国の人たちも加わることも多かったわけですが、今では倭寇と呼ばれています。
中国や高麗の政府は、幕府が倭寇を抑えてくれたら、正式の貿易をして儲けさせてやろうということを幕府に持ちかけ、勘合貿易というのが行われました。日本側には、恩着せがましくいわれる筋合いはないという意見もございましたし、規模も十分でなかったので、倭寇の活動を抑えられませんでした。
最後のほうは、周防の大内さまが細々と将軍の名を使って、博多商人に寧波への船を出してやっておられましたが、大内義隆さまが家臣に滅ぼされて中止されました。

こういう状況のなかで、南蛮船がやって来て、鉄砲やキリスト教を伝えたり、東シナ海を舞台にした、日本と中国の貿易なども主導権をとりつつあったというのが、秀吉が登場した時代でした。
ひとことでいえば、室町幕府は南北朝の対立や、関東での争乱とかがあって強力な中央政府であった時期は短く、一方で、中国では明、朝鮮では李氏朝鮮が全盛期にあったので、あまり強力な外交政策を進めようがない状況でした。ですので、貿易上の利益の争奪戦を、幕府をはじめ、堺の商人と結んだ細川、博多商人と組んだ大内、倭寇と呼ばれる人たちが、あまり戦略的でない対応をしていたわけです。
それに対して、秀吉は強力な統一国家をつくりあげました。一方で、南蛮人がやって来るなかで、しっかりとした対応をしないと国を守れないという事情もあったので、東日本は徳川家康さまたちにお任せして、新しい海外との関係を日本に有利なように構築するべき時代だったということです。
これには、明や李氏朝鮮も全盛期が終わり、衰退期に入っていたという事情もございました。※2
※1 堺屋太一『豊臣秀長 ある補佐役の生涯』 (PHP文庫)は、菅義偉前首相の愛読書として知られる。
※2 明の全盛期は永楽帝(在位1402~1424年)の頃で、李氏朝鮮は世祖(1455~1468年)までで、そのあとは徐々に衰退していた。そのあたりの事情は、拙著『日本人のための日中韓興亡史』(さくら舎)に書いてある。
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- イラスト:ウッケツハルコ







