籠城した北条氏も驚愕!? 東国仕置きは秀吉のやりたい放題

上洛をゴネ出した北条氏政
小牧長久手の戦いなどで、秀吉と家康さまが戦ったときには、家康さまは北条と接近され、信長さまの娘との結婚はやめさせて、自分の娘である督姫さまを、氏政さまのお子である氏直さまの奥方として嫁がせられたのでございます。
しかし、秀吉と家康さまが和睦することになったので、家康さまは、あらかじめ、氏政さまにその旨を伝えられました。そして、九州攻めが終わった天正16年には、秀吉から家康さまを通じての圧力は強くなり、家康さまは、自分は関東に野心はないし秀吉にも讒言(ざんげん)するようなことはないから、弟の氏規さまを早く上洛させるように、それが嫌なら娘を離別して返してくれと、氏政さまにおっしゃったのです。
そこで氏規さまが、しぶしぶ上洛し、秀吉の前に出て服従を誓われたのですが、無位無冠であったために、酷く屈辱的な扱いを受けました。
そのあとも、秀吉は関東の諸大名の領地の確定を進めました。争いの余地をなくして、秀吉の天下の秩序を守らせるためです。

そのなかでいちばん面倒だったのが、上野国の北のへりに広がる沼田・吾妻領といわれる地域だったのでございます。ここは当時、家康さまの与力ということになっていたものの、一筋縄ではいかない真田昌幸さまが支配していましたが、北条としては譲れない土地でもありました。
そこで秀吉は、この主要部を北条に渡して、代替の土地を真田に与えるが、真田家の墳墓の地である名胡桃(なぐるみ)については、真田に残すという裁定をしたのです。
これは、常識に沿ったもので、双方から受け入れられ、天正17年(1789年)の夏には領地の明け渡しもされました。残すところは、北条氏政さまが上洛されるのを待つばかりになっていました。
ところが、氏政さまはなかなか動かれません。それには、上洛するとなると、道中や土産なども含めてたいへんな費用がかかるということもあったようです。もともと、室町幕府の将軍側近だった伊勢新九郎(北条早雲)さまを初代にされたお家ですから、そういうのは得意だったのでしょうが、五代目となるとすっかり田舎大名になって、どうしたらいいかわからないということもあったかもしれません。
しかも、お国替えになるのではないかとか、そのまま京に住むように言われるだろうとかいう噂が流れてきたことも、心配を増幅させました。そこで氏政さまは、そういうことはないという保証が欲しいとか、家康さまが秀吉のもとにやって来たときは、義母の大政所を実質上の人質に出したのだから、同じ配慮が欲しいとかも言い出しました。
あいだに入っていた家康さまも、もう付き合っておれないという気分になってこられたようでございます。もっとも北条からすれば、家康さまが関東を欲しがっておられるのでないかと疑っていたようでもあり、実際に戦後、家康さまは本当に関八州を手に入れられたのですから、全く見当外れでもなかったのです。
また、名胡桃事件を収めようと思えば、責任者である猪俣邦憲の腹を切らせることも不可避になってまいりました。高松城のときには、安国寺恵瓊の説得で清水宗治さまが腹を切ることを承知したので毛利は救われたのですが、戦いを終息させるため、誰かに犠牲になってもらうのは、たいへん難しい決断がいります。

11月24日に、秀吉は征伐の意向を伝えましたが、北条は同じような弁解を繰り返して、氏政がすぐに上洛するとも、責任者を切腹させるとも言わなかったのです。
このあたりになると、氏政さまやお子の氏直さまのあいだの意見も齟齬がございましたし、家臣たちをまとめきれなくなっていたのだと思います。
もちろん、氏政さまには上杉軍や武田軍に包囲されても、貝のように閉じこもって撤退に追い込んだので、今回も守り切れるかもしれないという期待もあったでしょう。しかし、上杉や武田はそれぞれ2万人くらいの兵力ですが、秀吉が動員するのは20万人を超えます。
また、農繁期には動けない農民兵でもありませんし、食料なども現地調達でなく、運んで行きますから、米を奪われた農民たちが一揆を起こして北条を助けてくれる見込みもありませんでしたので、持久戦の意味がないのです。
それに、秀吉は好んで戦いに持ち込んだわけではないですが、東国の人々に誰が天下を治めているかを見せつけるためには、出陣の機会なく服属されたでは物足りないことになりますから、もし北条が従順に降伏しても、東北などでの反乱勢力鎮圧にこき使われたことでしょう。
北条は秋から年初にかけての時間を、家康さまに泣きつくだけで無駄に使っているうちに、2月には家康さまが伊豆との国境に兵を進められ、3月1日には秀吉が京を発ち、19日には家康さまが自由に使うように言い残して出陣されたあとの駿府城に入りました。
せっかちの秀吉にしては、19日までかかったというのは遅いのですが、途中で生まれ故郷の中村に立ち寄って、小早川隆景さまに自分の生まれた家を見せたりして、余裕綽々の旅でした。
よく、秀吉が貧しい生まれであることを隠していたとかいう人がいますが、これを見てもそんなことはないことがわかります。以前にお話ししたことがありますが、関白になったりすることを快く思わない人たちに納得してもらうために、御落胤とかいう噂を流しておいたほうが「それなら仕方ない」と思ってもらえるので、そういうことも言っていたというだけです。
現代の企業でも、ライバルが抜擢されたときに「あいつの親父は社長と表には出てない特別の関係があるらしいよ」とかいうと、仕方ないと納得する人が多いようなものでございます。
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- イラスト:ウッケツハルコ







