籠城した北条氏も驚愕!? 東国仕置きは秀吉のやりたい放題

天下人になって人が変わった秀吉
そして21日には、豊臣秀次が山中城(三島市)を攻め落としました。この城は、箱根の山の手前における最後の抵抗拠点でしたが、攻撃が始まって、その日のうちに落城する想定外の展開になり、小田原城はその数日後には秀吉軍に包囲されてしまいました。
氏規さまが守る伊豆の韮山城とか、石田三成の水攻めによく耐えた忍城など、よく抵抗した城もございましたが、次々に開城していきました。
また、秀吉は小田原城を見下ろす石垣山に、建物はハリボテですが、立派な石垣を備えた城を築いて、長期戦の用意があることを見せつけました。大きな樹木に囲まれた所で工事をして、ある日、一斉に木を切り倒して、小田原城の将兵を驚かせたとか聞きました。それは、秀吉が土産話で面白おかしく話したものですが、まったく、作り話でもなかったようです。

そして、私に手紙を書いてきて、鶴松を生んだばかりの茶々を「寧々の次に気に入っているのでよこしてくれ」とか言って呼び寄せ、また、その前から京極竜子も呼んでおりました。
また、千利休に茶会を開かせ、能の興業などもしてピクニック気分でした。なんとなく無駄にみえますが、秀吉としては関東・東北の大名たちが、参陣してくるのに時間を充てるという趣旨もございました。
たとえば、この頃、会津黒川におられた伊達政宗さまは、家中の反対をようやく押し切って、やって来られました。6月5日に小田原に着かれましたが、まずは惣無事令に違反して黒川城(若松の古名)を攻略したことなどについて前田利家さまらに尋問させ、そのうえで、9日になって謁見を許し、黒川城などを放棄することを条件に本領を安堵しました。
また、北条の降伏後に誰を抜擢するかも熟慮していたのです。
さらに、攻囲中にも城内の武将たちに調略もいろいろ行われました。そして7月5日、氏直さまは、滝川雄利さまの陣所へ向かい、氏直さま自身が切腹することで将兵の助命を請うことになりました。
しかし秀吉は、家康さまの婿であることから、氏直さまを助命し、氏政さまとその弟の氏照さま、重臣の大道寺政繁と松田憲秀に切腹を命じ、氏直さまは高野山に追放ということになりました。
氏直さまは、その翌年には大坂へ引っ越され、1万石を与えられて、いずれはしかるべき石高の大名に、ということになっていましたが、その年の11月に疱瘡で亡くなりました。しかし、北条の家は、氏規さま(氏康四男)の子孫が、河内狭山1万石の大名として幕末まで続きました。
大道寺政繁と松田憲秀の二人は、調略に応じて主君より先に降伏したのですが、赦免の約束を攻め手の武将たちが勝手にしたのが気に入らなかったのか、主君に忠実でなかったということで切腹させられてしまいました。
戦国時代が終わるとあっては、主君に忠節をすることを推奨する必要があったということもございました。
この小田原攻めでは、激しい戦いが少なかったので犠牲者は少なかったのですが、山中城攻めで、稲葉一鉄の姪の子で、早くから秀吉に仕えてきた一柳直末(ひとつやなぎ なおすえ)が戦死したのは惜しいことでした。弟の直盛の子孫が、伊予小松と播磨小野の大名として残りました。
茶人の山中宗二は、千利休の高弟で秀吉に仕えたこともあるのですが、反抗的な口の利き方をすることから浪人して、この頃は北条氏に仕えていたのですが、脱出して千利休に連れられて再仕官したいとやってまいりました。
ところが、ここでも北条早雲さまの末子で、前年まで存命だった北条幻庵のことを誉めるなどして秀吉と口論になり、成敗されてしまいました。このことは、千利休さまが秀吉から離れていく理由になったという人もおります。
九州攻めの不手際で改易されていた仙谷秀政は、鈴をたくさん付けた甲冑を来て城攻めに参加し、秀吉を喜ばせて再仕官に成功しましたが、尾藤知宣は秀吉の前に現れて許しを請うたのですが、秀吉軍の戦略を批判して自分ならこうするとか、若い頃の秀吉に対するようになれなれしく振る舞いすぎて怒りを買い、成敗される羽目になりました。
尾藤知宣は、石田三成夫人の叔父ですので、三成としてもつらい出来事だったようでございます。
これまでの秀吉は、諫言もよく聞く人でしたが、天下人になってからは、だんだんと自分の権威を認めない者に対して、怖い人でなければならないという気持ちが強くなってきたということはございました。
それからも、一度、勘気を被った人でも、しばらくすると許して、それなりの処遇をするということは変わりませんでしたが、少し難しい人になってきたという印象は私も持っておりました。
※鎌倉公方の館は、鶴岡八幡宮から2km足らず東の谷間にある浄妙寺方面にあり、その石碑がある。ただし鎌倉市などでも、鎌倉時代の町の様子の研究には熱心だが、室町時代の鎌倉の研究は後回しになっている。
※島津氏の祖の忠久は、近衛氏に仕える惟宗朝臣の中クラスの公家だった。惟宗は秦氏の一族の一部に賜られた姓。忠久の外祖母は比企氏出身で頼朝の乳母だった。その娘が頼朝の子どもを連れて、惟宗氏の妻になったというのだが、なにがしか根拠があるのか、南北朝のころになって言い出した話なのかは不明である。今ある源頼朝の墓にしても、江戸時代の後半になって島津重豪が、自分たちが頼朝の子孫だという伝説を正当化するために立派なものをつくったのである。鶴岡八幡宮でも頼朝の祭祀を受け継いでいるのは島津家というように扱っている。
※小田原城は、伊豆方面から進出してきた北条氏が、東から来る敵に対峙するには堅固な城だが、西の箱根や御殿場を越え、水軍も動員できる敵を相手にしたときは、それほど堅固な構造でないのだった。
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- イラスト:ウッケツハルコ







