日本一の相続問題。関白・秀次を厳しく処分した秀吉の苦悩

大政所が亡くなり悲しみに暮れる秀吉
天正という年号は、信長さまが足利義昭さまを追放して、天下を治められるようになったことを記念して改元されたもので、20年間も続きましたが、天正20年の12月8日に改元されて、文禄ということになりました。
長いあいだ親しんでいた天正という時代が終わったのは寂しい気がいたしましたが、天下統一ができて希望を持って迎えた文禄という時代が、散々な時代になるとは思いも寄りませんでした。
この年の5月に漢城が陥落し、秀吉は自ら渡海すると言ったのですが、家康さまや利家さまが準備万端整えてからでいいではないかと止められたので、秀吉も次の年の春に、ということで承知したのです。
現地の将兵や石田三成たちは、秀吉にも大軍とともに渡海してもらって、総力戦で地歩を固めるということと、いちど秀吉自身が前線を視察して現地の実情を見ておかないと、あとあと隔靴掻痒(かっかそうよう)になると思ったようですが、もちろんリスクもあったと思います。
私たち家族、とくに義母のなか(大政所)は、秀長や旭に先立たれて気弱になってきたときですから、やめて欲しそうでした。私はどうせ止めても聞かないので、好きなようにしたらと割り切っておりました。どうせいつも、そういうことばかりでしたから、どなた様のお宅でも、そういったことがおありでしょう?
ところが、7月22日に義母のなか、つまり大政所が京の聚楽第で亡くなってしまったのです。秀吉は急ぎ帰洛したのですが、間に合いませんでした。肥前名護屋にいた秀吉のもとに危篤の報せが届いた日には亡くなっていたのです。秀吉が京都に着いたのは8月2日のことで、大坂ですでに亡くなっていたことを聞いた秀吉は、悲しみのあまり卒倒してしまいました。

秀吉に似て、元気いっぱい好奇心のかたまりのような義母でした。よく怒られもしましたが、亡くなってみると、義母の存在にずいぶんと助けられていたことを身につまされることがいろいろ起きてくるのでした。
秀吉は10月1日まで畿内にいました。49日の供養も終わりましたので、名護屋に向かって戻っていきました。ただ、その間に、帝から渡海中止を請われて、少し気分の高揚が萎えてきたようでした。
それに朝鮮では、加藤清正みたいな積極的な戦線拡大派の武将もいましたが、毛利輝元さまあたりも、朝鮮は広いし、言葉も通じないので、統治は容易でないと冷静な観察を漏らして国元に書き送ってこられたと聞きましたし、小西行長や石田三成も戦線拡大に慎重になってきたようでした。
朝鮮国王の宣祖は、はじめ平壌に逃げ、それも小西行長の軍勢に占領されたので、鴨緑江に面した義州に逃げ、明の介入を要請しました。しかし、この頃の明では、西域の寧夏地方でポパイの乱というモンゴル族との抗争があり、とりあえずは時間稼ぎをすることになります。
沈惟敬という在野の人物が、明の兵部尚書(国防相)である石星という方に取り入って交渉に派遣され、平壌の小西行長との交渉にあたり、行長に信用され、前回お話ししたモンゴルのアルタン・ハーンと明との関係に似たものを、秀吉とのあいだで結ぶことは可能だと説得したらしく、念頭にして50日の停戦が行われました。
ところが、寧夏方面が少し落ち着いたので、派遣されていた遼寧方面の司令官である李如松が戻ってきて、朝鮮に進軍してきました。この頃、モンゴルではチャハル部のハーンが、アルタンに押されて内蒙古の北西地方から北東地方の興安嶺東側に移ったために、明では軍閥の指導者たちを援助して対処させていました。その軍閥のひとりが李如松でした。
李如松たちが戻ってきたので、沈惟敬の交渉は中断させられ、明の大軍が突然、平壌を占領し、行長は漢城に退却しました。文禄2年の1月のことです。明軍はさらに南下し漢城に迫りました。
日本軍は、軍議を開き、石田三成らは籠城戦を主張しましたが、立花宗茂は長期戦となると兵糧が足りないと主張し、漢城の北西にある碧蹄館(※1)で迎撃することになりました。
李如松は、3万人の騎馬軍団を率いてやって来ました。日本の先鋒は立花宗茂で、1月27日、午前6時に日本軍から攻撃を仕掛け、明の先鋒の陣内に攻め入り、苦戦しましたが、立花宗茂本隊が側面から攻めて、これを明先鋒本隊・査大受(さたいじゅ)の7千が左右から襲撃し、本隊へ押し返しました。
お昼前になると、小早川隆景隊が李如松の本隊へ突撃し、鉄砲隊が銃撃を加え、ぬかるみで騎馬隊が動けないところへ総大将・宇喜多秀家の本隊が加わりました。李如松もたまらず引き揚げ、日本軍の大勝となりましたが、追撃は無理だと小早川さまが止めたそうです。
この戦いは、七世紀に白村江の戦いで日本軍が唐軍に敗れてから、900年ぶりの日中決戦でございました。陸上での戦争では初めてのことです。日本の歴史でも記念碑的な勝利なのですが、平成・令和の日本では戦いの名前すらタブーになっているようで、大河ドラマなどでも扱ってはいけない決まりのようでございます。
しかし、このあと、日本軍はいったん釜山周辺まで退去し、和平交渉になるのですが、それは次回に紹介いたします。そして、このあいだに日本では、秀頼の誕生と秀次の切腹という大事件が起きていたのです。
茶々の懐妊で秀次との関係に距離がうまれる
秀吉は、大政所の供養が済んだら渡海するつもりだったのですが、年が明けると、なんと茶々が、またもや名護屋で懐妊していることがわかったのでございます。もしかすると、九州の暖かい気候が良かったのかも知れません。
秀吉は茶々を大坂へ返し、文禄2年(1593年)8月3日には男子が誕生いたしました。お拾君、のちの秀頼でございます。

秀吉は喜んで名護屋から戻り、お拾に日本の五分の一くらいはやって欲しいと秀次に言いました。
天下は大事な姉の子である秀次にやったものだから、返せとはいいにくいものの、若君の将来について、秀次はどう考えてくれるのかと秀吉は鎌を掛けてみたのです。
ところが、秀次の反応はにぶいものでございました。そもそも、秀次はお拾がお生まれになった以上は、自分から、お拾君を養子にして、成人のおりは関白を譲るというくらい仰るべきだったのです。
ところが秀次は、秀吉からこの年の暮れになって、将来、お拾君と秀次の姫を娶そうという提案をされても、すぐには承諾しませんでした。むしろ、その方針を自分が熱海に湯治にいっているあいだに決めてしまったというのが不満そうでした。
これでは、秀吉も安心できませんが、もし、秀吉にもしものことがあれば、お拾は秀次にとって邪魔者になりますから、茶々が疑心暗鬼になったのです。
といっても、3歳で死んだ鶴松のこともあるので、秀吉もはたしてお拾が無事に育つか半々のような気分もありました。乳母任せだった鶴松のときと違って、今度は茶々が自分で育てることになりました。伏見に引っ越すというのも、茶々は「鶴松を早く移したら死んでしまった」と言って秀吉に楯突くなど、私たちの時代の親子関係では考えられないくらい、子どものことになると自分の意見に執着したのです。
秀吉も最初から、すでに秀次を養子にしたこともあって、「鶴松は私と茶々の子だが、お拾は茶々の子でいい」とか言っていたくらいですから、私にもあまり相談はありませんでした。(※2)
そして、秀吉が死んだあとに、自分とお拾はどうなるのだろうかと、しきりと茶々は、秀吉にも人にも漏らすようになりました。
この年に、秀吉は伏見での城普請を始めました。名護屋にもう行かないとなると、京へ上がるに便利なところということです。
この年は浅井長政さまの21回忌でございましたので、新たに菩提寺として京都に建てられた養源院で、茶々たちは法要を執り行い、浅井家ゆかりの人たちが集まったそうです。茶々のまわりに集まる人がだんだん多くなって、私には少しよそよそしくなってきたような気もいたしました。
この年には、私の父である杉原定利が亡くなりました。秀吉は元気づけようと思ってくれたのか、有馬温泉に連れて行ってくれました。有馬温泉は、豊臣家のお気に入りの温泉で、今でも秀吉がつくった「太閤湯」という露天風呂が残っています。先日もタモリさんがテレビ(『ブラタモリ』)で紹介してくださいました。
秀吉は文禄3年(1594年)になっても、秀次との折り合いをなんとかつけようと、あれやこれやしておりました。しかし、秀次はいまひとつ煮え切りません。そこで秀吉は、前田利家さま、蒲生氏郷さま、徳川家康さま、宇喜多秀家さま、佐竹義宣さま、上杉景勝さまなどの屋敷を訪問して、秀次の評判など探りました。
御所で能を上演するなど朝廷との交流にも気を遣ったり、大名に伏見にも屋敷を建てさせました。
2月の終わりには秀次も一緒に吉野で花見をしました。明治以前に建てられた木造建築として、東大寺大仏殿に次ぐ金剛峯寺の金堂は、このときに建てられたものでございます。荒々しい大木をそのままの形で使った野性味あふれる御堂です。それから、高野山へまわって、亡き母のために創建した青厳寺に参詣しています。

- 写真 :
- けいわい / PIXTA
- 自由入力 :
- イラスト:ウッケツハルコ







