「 関ヶ原の戦い」西軍・東軍どちらにつくかの決め手とは?

家康の“圧”に立場を迷う茶々
私の周りにいる者には西軍関係者が多かったのです。私の片腕の孝蔵主は、三成の縁者でしたし、三成たちが成功するように祈っておりました。私が東軍寄りだったという話も良く聞きますが、戦いの前に豊国神社で行った戦勝祈願にも参加いたしました。※2
兄の木下家定や子どもたちのほとんどは西軍寄りの立場でした。家定は三成が挙兵したときには私の護衛と称し京の三本木におりましたし、家康から言われて伏見城の守備をしていた甥の勝俊も、弟の小早川秀秋が攻撃側の対象と聞いて、退去して護衛に加わっています。次男の利房は西軍に属し、加賀大聖寺城攻撃に参加しました。ただし、三男の延俊は姫路城の城番をしていましたが、細川藤孝さまの娘婿だったことから東軍につきました。
気がかりだったのは、肝心の茶々が煮え切らなかったのです。秀吉が亡くなったあとの家康さまのなさりようには、茶々としても憤懣(ふんまん)やるかたなかったのは確かです。しかし、利家さまが亡くなり、利長さまや三成が失脚された以上は、しばらくは家康さまの言いなりにならざるを得なかったし、江の舅であるという信頼感もありました。
ですから、利長さまが窮地に陥られたときにも、それを助けるという積極的な行動は取らなかったのですし、会津攻めには軍資金まで出したのでございます。
しかし、三成が挙兵し、毛利輝元さまや宇喜多秀家も味方され、西軍が上げた家康さまの罪状はまことに最もなものでしたから反対できません。
そうはいっても、茶々にはろくな側近もいません。乳母である大蔵卿の息子の大野治長は、家康を暗殺しようとしたとの疑いを掛けられ、下野に流されたのち、家康さまに利用されて東軍に参加していました。
茶々の周りには信雄さまなど織田家の者たちがたくさんいましたから、あまり深入りはしないほうが良いと助言したでしょうし、それを受けての、ややおっかなびっくりの対応でした。とくに三成にとって心外だったのは、豊臣家として軍資金を出すことがなかったことです。
また、家康さまは許せないので、西軍が勝ったあとは腹を切らせるか隠居させるかしても、秀忠さまにはしかるべき領地を残してやって欲しいと、輝元さまや三成に言っていたようです。
まして、8歳の秀頼を出陣させるということは、茶々は絶対に反対でした。総大将の輝元さまも秀頼と一緒にいて大坂城から出ないうちに敗戦となり、三成たちが勝手にやったこと、家康さまはよく逆賊を討ってくれたと、茶々も言わざるをえなくなりました。
ただ、茶々も私も、大津城の竜子と初のことは心配でした。そのことは、あとでお話しします。
小早川秀秋は最初、西軍について、家康さまの留守居だった鳥井元忠さまが籠もる伏見城を攻撃しました。しかし、家康さまが家老の稲葉正成(春日局の夫です)などを籠絡した結果で、私とは関係ありません。三成からは、秀頼が成長するまで関白にすると言われたものの、家老からは任せておいて欲しいとか言われ、9月15日の戦いでは土壇場での裏切りということになりました。

戦国の世で裏切りは珍しくありませんが、戦場で扇の要というべき場所を自分で占めておいて、だまし討ちのような形で大谷吉継の陣に襲いかかったなど、恥知らずとしか言いようがありません。
吉継の母親である東殿は、私の侍女でしたから、もう恥ずかしいと言ったらありません。東軍についた武将たちのあいだでもまったく誉められもせず、家康さまからは、遅すぎた内応を咎められ、三成の佐和山城を攻めさせられました。宇喜多秀家の領地だった備前と美作を得ましたが、酒に溺れ、家臣も傷つけたりしたので、家老の稲葉正成などにも去られ、早死にしてしまいました。
借金をせがまれて貸してやったりはしましたが、利発そうなので秀吉の養子という分不相応な地位にしたのが間違いでした。※1
- 写真 :
- or-kame / PIXTA
- 自由入力 :
- イラスト:ウッケツハルコ







