地震、焼失、廃城…何度も建て替えられた伏見城

大地震に見舞われるも伏見城が完成
伏見の町は、京都から奈良に向かって下っていく街道が、宇治川を渡るところにございます。現在、宇治川の南には広い平野に田畑や住宅がありますが、昭和の初めまでは巨椋池(おぐらいけ)という大きな湖でした。
観月橋という、京都と奈良を結ぶ国道24号線の橋の東側に、標高40メートルほどの指月山という丘があって、平安時代から月見の名所として知られておりました。

中世までは、琵琶湖から流れ出した瀬田川は、山城に入って宇治川と名を変え、この湖にいったん流れ込み、そこからまた流れ出て木津川や桂川と合流し、淀川と名を変えて大阪湾に流れていきました。
その合流点の少し下流の橋本というところは、むかし橋が架かっていたのですが、その南側には石清水八幡宮があり、北側には山崎の町があります。瀬戸内海を航行してきた大きな船も、ここまでは遡ってくることができました。紀貫之という平安時代の名高い歌詠みの方が、土佐から帰洛するときに上陸したのも、ここでございます。
そして、油座などがあって、たいそう栄えて、秀吉が本能寺の変のあとに大坂城を築くまで、山崎城を築いて本拠にしたのはお話しした通りです。
現在、菊花賞などでおなじみの京都競馬場の近くにある淀城は、山崎より少し上流の宇治川の南側、木津川の北側で、江戸時代になって築かれたものです。茶々が鶴松君を出産した古い淀城は、もう少し上流で宇治川の北側にあたる納所というところにございました。いずれにせよ、明治になって近代的な土木技術で洪水が起きないように、大きく川の流路を変更したので、当時の地形をしのぶ面影はあまりありません。
指月山は、もともと宇治の平等院を建立された藤原頼通さまのものでしたが、中世には持明院統(北朝)の持ちものになり、やがてその分家である伏見宮家の邸宅になりました。北朝の帝の御陵があるのは、その名残りです。
秀吉は聚楽第を秀次さまに譲ったあと、伏見宮邸を京都御所の北に移してこれを買い取り、京都に近い邸宅としました。そのときは風流な別荘だったのです。けれども、この年に佐久間政実さまに命じて本格的な城を築くことを始めました。
しかし、大地震のためにこの城は壊れてしまいました。地震で建物はあらかた壊れましたが、火災は起きなかったようで、櫓や殿舎の木材などが再利用できたので、地震が起きた2日後には、東の木幡山で新しい伏見城の作事が着手されました。
秀吉は、すでに木幡山(標高105メートルほど)への移転計画を建てていたのです。そして、慶長2年(1597年)5月には天守閣と殿舎が、さらに同年10月には茶亭が完成いたしました。

築城が終わった伏見城は、本丸の西北に天守閣があり、西方に二の丸、北東部に松の丸、南東部に名護屋丸、曲輪下には三の丸、山里丸などの曲輪を配し、出丸部分を加えると12の曲輪が存在しました。私は行ったことがないのですが、茶々たちによると、肥前の名護屋城に似ているそうです。
「舟入学問所」といわれる茶亭には、宇治川から直接、舟を横付けできました。この遺構は、桃山町丹後に南北約300メートル、東西90メートルの窪地として残っております。私たちは、慶長2年(1597年)5月に天守閣が建設されたときに引っ越しいたしました。
秀吉は結局、ここで死ぬことになるのですが、そのお話は次にするとして、この城の運命はどうなったかと言えば、関ヶ原の戦いの前夜の攻防戦で焼けてしまいました。
三期目のものは、徳川家康さまによって同じ場所に再建されました。1603年に家康さまが将軍宣下を受けたのは、この城でございましたし、秀忠さまも家光さまも、同じようにここに勅使を迎えて将軍となりました。
ですが、1625年になって廃城となりました。跡には桃の木が植えられたので、いつしか桃山と呼ばれることになったのでございます。この城を廃したのは、秀吉の思い出を消したかったからではございません。ここは徳川幕府発祥の地なのでございます。大坂城が手に入ったので、京都での滞在先は二条城、西国の押さえは大坂城で、という役割分担にしただけです。
建物は、天守閣が二条城に移されたのをはじめ、各地にもらわれていきました。皇居二重橋の伏見櫓、福山城の伏見櫓、二条城唐門、豊国神社唐門、竹生島神社本殿と渡廊下、東山高台寺、伏見御香宮、長浜大通寺の諸建築、西本願寺白書院、松島観瀾亭など全国に散らばっております。
すべての伝承が正しいとは限らないわけですし、学者の方は、移築されたことの証拠がないとして否定されることが多いのですが、日本の建築史上の傑作群だと言っていただいております。最高の部材と名工が、腕に“より”をかけた作品を再利用せずに無駄にしたと考えるほうが、おかしいのではないでしょうか。
昭和に再建された、現在の伏見城の鉄筋コンクリートの天守閣は、私たちの頃の本丸が明治天皇の御陵になったために、少し外れた所に立っております。けばけばしく品がないという人も多いのですが、本来の桃山時代らしい色彩感覚が再現されておりまして、映画などではこれを大坂城として使うことも多いのでございます。※1
また、築城と並行して、大土木工事が起こされ、宇治川と巨椋池のあいだを堤で分離して水深を深くし、大きな船が伏見まで遡れるようにし、淀川左岸の堤を頑丈にして伏見と大坂のバイパスのようにもしたのでございます。
また、江戸時代には、西国大名は参勤交代のときに、姫路の室津港あたりまで船で来て、大坂に入り、船で伏見に立ち寄り、そこから京には入らず、山科盆地の東側を抜けて逢坂の関から大津に入って、そこから東海道を下がるのが普通でございました。
こうして伏見は「京都港」といった機能を持つようになりました。幕末の歴史でも、坂本龍馬なども大坂からここまでは船でやってきて、船宿である「寺田屋」に泊まったことはよく知られたとおりです。鉄道の時代になるまでは、ここが京都の西日本への玄関口だったのです。

秀頼を後継者として認知させようと必死の秀吉
お江と徳川秀忠さまの婚儀が執り行われたのは、秀次事件から2ヶ月が経った9月のことでございました。徳川家をお拾(秀頼)の後ろ盾としようという必死の願いでした。
お江は秀忠より6歳も年上でしたが、そんなことは天下を巡る思惑のまえでは、誰も問題にいたしませんでした。とりあえず、家康さまにとっては身の安全が保証されたようなもので、大満足の縁組みでござました。
そして、茶々たち三姉妹にとっても、織田家の家臣団筆頭として、絶対の信頼が置ける前田利家さまに加え、徳川家がお拾の後ろ盾となってくれるであろうことで、すっかり安堵できたのですが、実際はそうでもなかったのはこれからお話しするとおりです。
秀忠という青年は、私が人質として短期間ですが預かったことがございまして、身長は160センチほど、当時としては普通です。身体つきはがっちりしていましたが、なかなか初々しく、私やお江にも、その後もそれなりに気をつかってくれましたが、家康さまに反抗してまで……というのは無理だとわかっているようでした。
秀次の領地であった尾張は、義母なかの縁者である福島正則さまに与えられました。大抜擢ですが、秀吉は前田利家さまにどうかと思ったのですが、石田三成が「虎に翼を与えるようなもの」といって反対したというようなことを孝蔵主から噂として聞きました。そのかわりに、越中新川郡(富山市)を加増いたしました。
この年、会津の蒲生氏郷さまが亡くなられました。父の賢秀さまは藤原秀郷の流れを汲むという、近江の蒲生郡日野というところの土豪で六角氏に従っていましたが、早い時期に信長さまに下られました。嫡男の氏郷さまを岐阜に人質に出されたところ、信長さまはこの若者をいたく気に入り、次女の冬姫さまの婿にいたしました。
信長さまの家来では、堀秀政さまと並ぶ若手のホープで、秀政さまが小田原で陣没され、この年に氏郷さまが亡くなられたのは秀吉の将来構想にとっても、大きな痛手でした。
秀吉が氏郷さまを会津に配されたのは、伊達政宗らに対する睨みで、むしろ、家康さまと東国支配の両輪であることを望んでいたのです。家康さまの監視役ではありませんでしたが、それでも存命だったら、徳川に天下をやすやすと許すことはない、気骨のある武将でござました。
京都の時代祭には、「豊公参朝列」という演し物も登場いたします。慶長元年(1896年)5月2日に行われた秀頼の皇室初参内と、元服時の行列の一部を再現したものです。大名は騎馬、それ以外は徒歩で行進いたしますが、秀吉とお拾は、牛車に乗って参内いたします。
自分が生きているうちに、秀頼を後継者として認知させようと秀吉は必死だったのです。そして9月には、秀頼を早くも元服させました。
- 写真 :
- adigosts / PIXTA
- 自由入力 :
- イラスト:ウッケツハルコ







