地震、焼失、廃城…何度も建て替えられた伏見城

明の使節が派遣されるも再派兵を命じた
碧蹄館の戦いで日本軍が勝利したのは、文禄2年(1593年)1月でした。明も交渉に応じることになりました。日本軍としても、漢城で食糧不足に悩んでおりましたので、日本軍は漢城を離れて半島南部に退き(4月)、明軍も朝鮮から撤退し、加藤清正が捕縛した王子を返還すること(8月)、明の使いが日本へ派遣されることなどが決まりました。
こうした戦いで、先に使者を出すことは、和を請うことになりますから、形の上では日本が勝ったと言えばそうなのです。しかし、明の使節は身分の低い者で、正式の使節とは言いがたいものでしたから、呉越同舟です。
明の使いは名護屋の秀吉のところに来たので、秀吉は明皇帝の皇女を帝の后妃とすること、勘合貿易の復活、朝鮮の慶尚・全羅・忠清・江原道の割譲、王子を人質として日本に送ることなどを要求いたしました(5月)。
また同じ頃、朝鮮では難攻不落と言われた慶尚南道の晋州城を、宇喜多秀家らが総攻撃し、これを占領しました(7月)。これで慶尚道や全羅道の確保の基盤ができたわけです。ここでいったん、日本軍は引き揚げたと間違う人がいますが、守備隊は釜山周辺に残っておりました。

一方、北京には小西行長の家臣である内藤如安(丹波出身で松永久秀さまの甥です。切支丹でジョアンを漢字にして名前にしておりました)が派遣されることになりました。これは、明の皇帝(万暦帝)に対しては秀吉が和を請うてきたので、アルタンと同じように日本国王に冊封し、貿易も行うことを許してやろうということで丸く収める手はずでございました。文禄3年(1594年)12月のことです。
ところが、明の宮廷では、秀吉がアルタンのように北京に近いところまで攻めてきていたわけでなかったし、アルタンに冊封と貿易を許しても、必ずしも大人しくなったわけでないというので、冊封だけはするが貿易は許さないということにしてしまいました。しかも、それすら万暦帝は不満だったらしく、内藤に直接の謁見を許しませんでした。
それでも、明は日本に正式の使節を出すことにして、文禄4年(1595年)の11月には釜山までやってきたのですが、使節のなかで意見がまとまらず、まだ日本に出発できませんでした。
しかし、このあいだに日本では、秀頼の誕生と秀次の切腹という大事件が起きていたのです。この事件のために時間を空費したことが、秀吉の存命中に事態を打開できない原因になり、それは後悔が残ることでございました。
文禄5年(1596年)には、明の皇帝から使いが来て講話の交渉がございました。はじめは、伏見城で謁見が行われるはずでしたが、閏7月の13日未明に大地震があり、現在の左京区から東山区、そして伏見の町が壊滅的な大損害を受けました。
この地震で方広寺の大仏殿は無事だったのですが、大仏がばらばらに壊れてしまいました。早く完成させたいと秀吉が焦って、唐人の仏師が勧めた木造にしたのがいけなかったようです。
伏見城でもほとんどの建物が倒れてしまいました。朝鮮での軍律違反を問われて、伏見で謹慎中だった加藤清正さまが、一番に駆けつけて罪を許されることになったと言われるのはこの時のことでございますが、私はその時の清正のことはよく憶えておりません。
当然、明使節の謁見どころではなくなり、代わりに大坂城に千畳敷という広間をこしらえて、そこで9月1日に謁見して、その場は穏やかに終わりました。けれども、そのあとの奉行たちの会談で、意見が対立して再派兵ということになってしまいました。
条件が折り合いそうもないことを心配した小西行長や宗義智が、秀吉に嘘をついて、ことをやり過ごそうとしたら、通訳にあたった相国寺西笑承兌が正直に訳したので、秀吉は書状を破り捨てたという説が信じられているようです。しかし、書状もちゃんと残っております。
秀吉がどうするつもりだったかは、私もあまりよくは聞いておりません。うまくいっているときなら調子のいい目論見を自慢げに話すのですが、そうでもないときですから、それほど言わないのです。
それでも、私の秘書ともいえる孝蔵主が、石田三成などから聞き出したところによると、明の使節団では、秀吉を日本国王に冊封する、朝鮮からの全面撤兵を要求する、加藤清正の捕らえた2人の王子を返還したお礼の使節を朝鮮国王に送らせる、交易はとりあえずは受けない、ということが交渉方針でございました。
ところが、正使のはずだった李宗城は、これを秀吉にはっきり通告して示そうとし、それに対して副使に予定されていた楊方享は、とりあえず冊封だけしたうえで交渉に入ればいいと主張したようです。
そこで李宗城は、そんなことでは北京に帰ったときに自分の身が危ないと、釜山から逃げてしまいました。楊方享が正使、そして沈惟敬が副使になって日本にやってきたのです。朝鮮の王子については、日本に一緒に来るようにというのが小西行長らの要求でしたが、朝鮮国王がどうしても拒否するので、なんとか明側が朝鮮側を説得して使節団だけ連れてくることで、良しといたしました。
そして、大坂城での対面では予定通り格好はつけたのです。このとき、秀吉の命令で、朝鮮の使節団は王子を連れてこなかったのが無礼だということで堺に留め置かれ、同席は許されませんでした。
小西行長や石田三成は、秀吉がこだわっている領土の割譲を承知させることは、すぐには無理としても、半島南部の倭城への駐留を継続させる、半島南部全域とはいわずとも、慶尚道と全羅道を日本に割譲したうえで、お礼に来た王子の封地として、秀吉から与えて間接統治し、引き続き明には交易を求める、ということが落とし所としてあるかと考えたようです。
戦争の和平は、太平洋戦争のように無条件降伏して、一括で戦後体制を決めるということはむしろ希で、停戦と戦闘再開を繰り返しながら最終的な落とし所を探るのがむしろ普通なのです。ですから、倭城への駐留となんらかの形での領土割譲を得たら、あとは時間をかけて獲物を獲得すればいいという考え方でした。
ところが、明国使節団が領土割譲はしないと曖昧さを拒否して強硬に主張したので、それを秀吉に報告したら、直ちに本格的な再派兵だということになってしまったのです。
小西行長や石田三成は、明の使節団はとりあえず筋論で頑張っているが、交渉のなかで妥協することもあると思ったのでした。しかし、あまりにも明側が原則論に拘った物言いをしたものですから、秀吉が「行長に瞞された」と怒ってしまい、行長は切腹だと秀吉が言うはめになったのです。
しかし三成が、秀吉を上手に説得して行長を切腹することはなんとか思いとどまらせました。しかし、本格的再派兵について、これ以上は時間を空費できないという秀吉の気持ちは固く、覆せず、いわゆる慶長の役が始まったのでございます。
朝鮮支配を黙認してもらいたかった行長と三成
ところで、小西行長や石田三成たちが、実際はどうしたいかと考えていたかです。参考になるのが、ひとつは、既に何度も紹介しているモンゴルのアルタンという人が、順義王という肩書きで冊封を受け、交易の特権も認められたことです。
冊封を受けたので、明の皇帝の家来になったようにとる人もいるでしょうが、それは現在の中国政府が勝手な歴史解釈をしているだけで、実際には、明の皇帝からアルタンのほうに貢ぎ物をしているのと同じことでした。
もうひとつ参考になるのが、関ケ原の戦いのあと、琉球(沖縄)について行われた措置です。沖縄に住んでいるのは、南九州から平安時代以降に引っ越しした方々が主流です。交流は盛んで言葉も日本語の方言ですから、早くから仮名が使われていました。
平安時代までは人口は僅かで、農業があまりされていなかったので、きちんとした「クニ」のかたちはなかったのですが、九州からの移民が農業を盛んにして、鎌倉時代あたりから、城(グスク)に有力者が本拠をおいて徐々にクニができて、南北朝時代には3つのクニにまとまってきました。
そこへ、明が統一されたので、洪武帝は周囲の国に、船も乗組員も準備するからと持ちかけて朝貢するように勧めました。それに応じて、朝貢使を派遣して、お返しにと貢ぎ物の何倍もの返礼品をもらい、琉球はそれを日本などに転売して儲けていました。また、琉球国王は形式的には明の皇帝の冊封で就任することになりました。
しかし、薩摩で島津氏の覇権が確立すると、こちらの影響も強まってまいりました。とくに日本の国内では、沖縄との交流は薩摩に任せておいて欲しいということになっていきました。そして秀吉の大陸遠征にあたっては、琉球は遠征軍に参加するように秀吉命令されたのです。琉球では、明にこれを通報する一方、派兵は無理だが、その代わりに島津が立て替えてくれるなら、お金は出すというコウモリ外交をしたのです。
しかし、これを琉球の王府で力をもっていた中国人官僚たちが※2、いつになっても返還しないために、島津では家康さまの了解を受けたうえで、派兵して支配下に置き、結局のところ、明との関係はそのまま続け、薩摩と明が間接的に貿易をする、首里に薩摩の代官を置いて国政を監督する、将軍に通信使を出す、奄美諸島は薩摩に割譲するということになりました。
明のほうでは、薩摩に実際支配されていることは知っているのですが、知らないことにしておく、つまり黙認するということになったわけです。
小西行長たちが考えていたのは、これに似たもので、それなりに現実的なものでしたし、琉球についてこうした関係を明も実質的には了解したくらいですから、朝鮮についても受け入れ不可能ではなかったかもしれません。

※1 明治天皇伏見桃山御陵は、秀吉の築いた伏見城天守台のすぐ南側に築かれたので、御陵の裏側に天守台が現存しているはずだが、調査が許可されていない。
※2 琉球では、まだ官僚機構をもった政府が成立しない段階で、明国が官僚を送り込んで、それが王府の対明窓口になっていた。江戸時代になると彼らもやや土着化し、日本との関係を重視するようになるが、この段階では北京の顔色ばかり見て、島津氏や幕府に非礼を繰り返し、武力討伐を招いた。
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- イラスト:ウッケツハルコ







