「能の稽古で忙しい」自分を主人公にした作品を残した秀吉

船長の法螺で厳しくなったキリシタン禁制
天正15年(1587年)に秀吉がバテレン追放令を出したことは、すでにお話しした通りです。しかし、その内容は布教を禁止したとは言え、信仰し続けるのは黙認しておりますし、実際、神社や寺を壊したりしなければ、キリシタン大名ですら厳しいお咎めはありませんでした。
南蛮船はあいかわらず来ましたが、いっときの長崎のように教会に土地を寄進したり、日本人をおおっぴらに奴隷にすることができなくなっただけです。
天正20年(1592年)には、スペインのマニラの総督に入貢を要求しましたが、とくに関係が緊張したわけではありません。翌年にはフランシスコ会宣教師ペドロ・バプチスタが来日し、京に修道院の建設が許可されたりして、敵対的なことをしなければ布教してもお咎めはありませんでした。
ところが、天正14年(1596年7月)にマニラを出航したサン=フェリペ号が、メキシコを目指したものの台風に遭って土佐に流れ着きました。領主の長宗我部元親さまは、積み荷を没収したものの船長が抗議するので、判断を秀吉に求めたのです。
秀吉は増田長盛を土佐に派遣し、日本を侵略するつもりがあるのでないかと尋問したところ、デ・オランディアという水先案内人が長盛に世界地図を示し、「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服をしてきた。まず、その土地の民を教化し、そののちに信徒を内応させ兵力をもって呑み込むのだ」となんともお粗末な法螺を豪語をしたのです。
しかし秀吉も、マニラでのスペインの軍事力には限界があって、日本を責めるなど無理だということを知っていたので、これにひどく驚いたというほどではなかったのですが、こんなことを言われたら、そのままにしておけません。
このために、キリシタン禁制が確認され、京にいた宣教師たちは慶長元年(1597年)12月に長崎で処刑されてしまいました(26聖人)。ただし、船の修理は認められ、無事にマニラに帰りましたが、これを機にフランシスコ会の活動は難しくなりました。

死後のために人事を整えていった秀吉
さて、秀吉は死ぬときに、德川家康さま、前田利家さま、毛利輝元さま、上杉景勝さま、それに宇喜多秀家(これは私たちの養女である豪姫の夫ですから、いわば家族ですので呼び捨てにします)の五大老と、石田三成、浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以の五奉行を定めてあとを託しました。こうした仕組みは、急に思いついたわけではなく、秀次の事件の頃から、徐々に出来上がってきたものでした。
秀次の一家を三条河原で処刑した文禄4年(1595年)8月2日の翌日には、家康さま、利家さま、輝元さま、秀家に小早川隆景さまを加えて「御掟」が出されております。
ここで、5人は「大名同士の結婚は秀吉の許可を取る」「大名などが誓詞を交わして徒党を組んではならない」「喧嘩が起きたら担忍した側に理有りとする」、「大名たちのなかでは、この5人だけが駕籠を使える」とし、東国の仕切りは家康さまに、西国の仕切りは輝元さまと隆景さまに願いするとしたのです。
そして、翌年の5月には、家康さまを内大臣に昇進させましたので、これより「内府さま」と呼ばれるようになります。そのすぐあとには、利家さまも権大納言に昇格され、加賀大納言さまと呼ばれるようになりました。これにより、この2人が政権の二位、三位であることが明確になりました。
つまり秀吉は、家康さまと利家さまの2人を別格にし、牽制させ合って秀頼を守ろうとしたのです。
そして、細川忠興とガラシャの長男の忠隆さまと、前田利家さまの六女の千代を縁組みをさせました。忠興さまは次世代のホープとして人望が高く、父親の藤孝(幽斎)さまより出世するだろうと、周りの者は思っておりました。
前田一門も、利長さまは信長さま四女の永姫さまと結婚し、次男の利政さまは蒲生氏郷さまの娘の籍と結婚していましたし、四女の豪姫は私たちの養女になって宇喜多秀家と結婚していましたから、なかなか立派な門閥になりました。実子がない私たちにはうらやましい限りでした。
一方、家康さまの次女の督姫は、北条氏直さまの正室でしたが、氏直さまが亡くなったので、正室の中川清秀の娘が病気で実家へ戻っていた池田輝政と文禄2年に再婚しました。
また、秀吉の亡くなる年のことになりますが、三女の振姫は蒲生氏郷さまの子の秀行と結婚しています。※2
秀吉としては、家康さまと豊臣に近い大名を親戚にしておいたほうが良いと思ったのですが、これが裏目に出て、関ケ原の戦いでも東軍の主力になったのはご存じの通りです。
そして、その極めつけは、慶長2年(1597年)の4月に生まれた、徳川秀忠さまと江(茶々の妹)の娘である千姫を、秀頼の許嫁にしたことでした。

ところで、慶長2年に2人の方が亡くなりました。1人は公方さま、つまり足利義昭さまです。幕府に仕えていた名門の人々を率いて名護屋城に下向し、オールジャパンでの戦争であることをアピールされたのが、最後の勇姿だったと思います。
波瀾万丈の人生を送られましたが、秀吉の勧めで京に上り、准三后(皇后、中宮、皇太后に準じると言う意味で男性にも与えられた)という称号をもらい、前将軍にふさわしい扱いを受けられました。暗殺されたりなど、あまりいい亡くなり方が少なかった室町幕府の将軍としては、幸福な晩年だったと思います。
ただ、最後の数年は体調を崩されたのか、華々しい場面への登場も少なく、お弔いも地味なものになりました。
もう1人は、小早川隆景さまです。毛利家にあって秀吉のことを高く評価してくれて、毛利家をしっかり豊臣政権につなぎとめてくれました。また朝鮮でも、碧蹄館の戦いでの勝利など大活躍されたのですが、異国の地での無理がたたったようです。
隆景さまの有名な言葉に「火急のことである。ゆえにゆっくり書け」というのがあります。朝鮮での作戦を議論していたときに、「このお備え定めは皆、勝ち戦の時ばかりのことなり、負け戦したる時のご思案ありたし」と言って秀吉をも唸らせました。
あの才気走った黒田官兵衛さまに対して「お主は私より才覚があるが、慌てていろいろ策すから誤りが多い。私はじっくり考えるから誤りは滅多にない」と諭したこともあるそうで、官兵衛さまも隆景さまが亡くなられたときには「この国にもう賢人はいない」と惜しみました。
隆景さまには、子どもがなく、弟の秀包を養子にされていたことはすでにお話ししましたが、子どもがない毛利輝元さまの養子に豊臣から誰かどうかとの噂があり、それに先手を打つ意味からも、隆景さまは私たちの養子になっていた秀秋を養子にされました。
私の甥で、兄の木下家定の子です。子どもの頃は利発そうで、一時は秀次と並んで秀吉の後継者候補ともいわれたのですが、少年時代から酒を飲むようになり、期待したような器量には育たず、私も責任を感じております。
秀吉は慶長の役では、小早川秀秋を総大将として朝鮮に派遣しますが、その任に堪えずということで呼び戻し、やがて、筑前から越前北ノ庄15万石に移しました。といっても、将来の成長を待って、また増やしてやろうという趣旨でした。
秀吉が生きているうちでの大きな大名の入れ替えの最後は、慶長3年(1598年)になって、上杉景勝さまを会津に、蒲生家を宇都宮に移したことです。蒲生秀行の家中がなかなかまとまらず、秀行には会津を任せておけないというのが理由でございました。
このとき、上杉家は越後や北信は召し上げになりましたが、佐渡と庄内は安堵されたので、120万石といわれるほどの大大名になりました。
そのあと、越後には堀秀政の子の秀治が越前北ノ庄から入り、春日山城から海岸沿いの福島に城を築いて移ることになります。
氏郷さまの死後、秀吉は息子の秀行では役目が務められないと心配しましたが、家康さまの三女である振姫さまを、秀行の許嫁にすることを条件に会津を安堵しました。しかし、その後のお家騒動も激しく、この人事は大失敗でした。のちに会津から宇都宮に移された蒲生家の、上杉家への逆恨みが関ヶ原の導火線にもなったのでございます。
※1 京極髙吉と京極マリア(浅井長政の姉妹)には5人の子があり、長男の京極高次は大津の小浜城主で、丸亀と多度津藩主はその子孫。その夫人は茶々の妹の初。次男の高知は飯田の宮津城主で、峰山と豊岡藩はその子孫。夫人は津田信澄の娘、継室は毛利秀頼(斯波義統の子)の娘。長女は秀吉の側室京極竜子。次女は氏家行広の夫人、三女は朽木宣綱夫人のマグダレナ。
※2 德川家康には5人の娘がいたが、成長したのは3人。信康と同母の亀姫は奥平信昌夫人。次女は督姫で北条氏直、ついで池田輝政夫人。三女は振姫で蒲生秀行、のち浅野長晟の夫人。三人とも子だくさんの家系となり、日本の名家のきわめて大きな部分が彼女たちの子孫だ。
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