嫌われ者だった石田三成を“守った”利家と“責めた”家康

焦る家康…秀吉の掟に背いてでも取りたかった天下
この頃、徳川家康さまには焦りがあったと思います。なにしろ、前田利家さまは大坂城で秀頼のお守り役であり、私や茶々と一緒にいるのです。しかも、信長さまの家臣だった大名や、秀吉から取り立てられた武将たちとは旧知の間柄です。
ところが、家康さまは織田家の家臣でも豊臣家の家臣でもなく外様です。そこで、家康さまは朝鮮から帰った武将たちなどに懇(ねんご)ろに接するように心がけられました。
彼らは、利家さまにも三成らへの不満は言ったのですが、三成を信頼するようになった利家さまは「お前たちの気持ちはわかるが、太閤殿下はあの者を信頼して差配を任せたのだし、仕事ができる。お前たちの帰国の差配もきちんとやった。口はよくないが、そこまで悪い男ではない」などと申されました。
そんなときに家康さまが「武辺の者としてはもっともなことよのう。三成はすぐに証拠を示せなどというが、戦場ではなぜどうしたなど、いちいち記録などとるものではないわ」などとつぶやかれたら、心はなびきます。
しかも、三成が家康さまを襲撃するのではないかという噂が流れました。そんな計画が本当にあったのかどうかはわかりませんが、用心深い家康さまは心配されていたのです。伏見の家康さまの屋敷が、三成の屋敷に隣接していて、しかも一段低いところにあって銃撃されやすいのも心配の種でした。
焦った家康さまは、秀吉から遺言で禁じられていた伊達政宗や蜂須賀家政、福島正則といった大名たちとの縁組みを始めました。
これを聞かれた利家さまは激怒して、家康さま以外の4人の大老と、五奉行の連名で詰問したので、家康さまは「手続きをしていないとは、うっかりしておりました。取りやめするのでご容赦を」といって、とりあえず謝られました。
この頃、利家さまは場合によっては、家康さまを討とうとされたようです。しかし、伏見にいた大名たちが警護の兵を出したり、家康さまの家来の榊原康政らが駆けつけてきたりしました。
仕方なく、利家さまは細川忠興らの仲立ちで、2月29日に伏見へ家康さまをお訪ねになり、差し違える覚悟で家康さまに諫言されたのでございます。
家康さまは隠忍自重してやり過ごし、3月11日には利家さまが伏せっておられると聞き、家康さまが大坂の利家さまをお訪ねになられましたが、利家さまは見た目にも長くないといったご様子でございました。
このとき、利家さまが「肥前守(利長)をよろしく頼む」と仰ったといって、これをもって家康さまの天下を認められたようにいう人もいますが、そんなことはありません。
利家さまは、場合によっては家康さまを刺す覚悟だったといいます。また、利長さまには自分の死後、3年間は大坂を離れないように固く仰ったと聞いております。利家さまの言葉は、大老である自分の後継者として、利長さまを同じように尊重するようにという趣旨でした。
利家さまが亡くなったのは閏3月3日のことでした。ところが、その翌日に大事件が起こりました。加藤清政・福島正則・浅野幸長・蜂須賀家政・黒田長政・細川忠興・藤堂高虎の7人が、大坂で三成を襲撃したのです。
三成は、佐竹義宣に守られて伏見に逃げました。家康さまの屋敷に保護を求めたというのは事実でありません。城内の自分の屋敷に逃げ込んだのです。
豊臣恩顧の大名たちが、こともあろうに、秀吉が政務の要とされた三成を襲ったのです。毛利輝元さまや私も仲裁に入ったのですが、7人も強硬です。増田長盛らの奉行は、自分が可愛いので、三成を守ろうとしませんでした。私もなんとか三成を助けたいと思いましたが、茶々は妹の江が秀忠と結婚しているので、煮え切りません。
結局、毛利も三成をそのまま守るのは無理だということになって、佐和山に隠退させることになりました。

このとき、三成を護送したのは、家康さまの次男の結城秀康さまです。かつて於義丸といわれたころに大坂城に来て、秀吉の養子となっていたことがあります。三成は身につけていた正宗の短刀を秀康に差し上げたそうです。
秀康さまは形のうえでは豊臣大名で、実父である家康さまの家来には最後までなっていません。
このあとの家康さまはやりたい放題でございます。朝鮮の蔚山城攻防戦について、蜂須賀・黒田・早川・竹中らを処分した秀吉の裁定は取り消され、それを行った福原長堯らが処罰されたのです。
また伏見でも、家康さまは自分の屋敷から伏見城本丸に引っ越しました。本当は、秀吉が私に伏見城本丸に引っ越すように言っていたのですが、私も心細く、前田利家夫人のまつさまなどもいる大坂にいる方が心強かったので、大坂城の西の丸、かつて京極竜子が使っていた屋敷にいたのです。
家康さまは、三成が佐和山に移ったあと空いていた屋敷や、その兄の石田正澄の屋敷を使っていたのですが、手狭でございました。
そうなると、秀吉の遺言では私が伏見に移ることになっていたはず、という声も聞こえてきました。そこで、私も家康さまに使っていただくために、大坂城を出ることにしたのです。
ただ、家康さまが伏見におればこそ、私が伏見城にいて牽制しろという意味だったのですが、大坂に移ってこられたわけですし、また、伏見城本丸も家康さまが自分のもののようにしていました。
それに、山城国に住むなら、秀吉の墓や新しくできた豊国神社のある京のほうが好都合ですし、公家衆や僧侶たちのような旧知の人もいました。
そこで、秀吉が現在の仙洞御所のところに、京屋敷としてつくっていた「京都新城」といわれるところに引っ越すことにいたしました。

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- shiii / PIXTA
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- イラスト:ウッケツハルコ







