嫌われ者だった石田三成を“守った”利家と“責めた”家康

家康の工作で途絶えた利長の母・まつの血
世間の方がよく言われるように、茶々が私を邪険にしたというのは事実ではありません。が、茶々も、私を立てていくというよりは、「いまさら」というような気持ちはなくもなく、そこを家康さまにつけ込まれたということはあったかも知れません。
利家さまが亡くなったあとは、秀吉が決められたように利家さま嫡男の利長さまが大老、そして秀頼のお傅役となられました。
しかし、この頃、加賀では家臣たちの対立もいろいろあり、領国を治めるうえで利家さまや利長さまの長い不在が、家臣たちの重荷になっていましたから、しきりに帰国を求めます。しかも、利家さまの遺骸を金沢に送り返してから、そのままだったということもございました。
事情は宇喜多さまや毛利さまも同じでございましたから、利長さまはなんとなく一度帰国しようかということになりました。
利家さまから、自分の死んだあと3年はどんなことがあっても秀頼のもとを離れるな、と遺言されていたのにもかかわらずでございます。魔が差したというか、家康さまの周到な工作もあったのでしょうが、利長さまは8月に金沢に一時帰国しました。
そのあいだに、奉行の増田長盛さまと長束政家さまが、利長さま、私の義兄の浅野長政、茶々の乳母である大蔵卿の子である大野治長が、家康さまの暗殺を企てているという密告を家康さまにしたのです。
帰国中の利長さまが、そんな企てをしようとするというのも不自然なのですが、利家さまの生前にも暗殺計画があったことを蒸し返したのか、増田さまと長束さまが浅野長政の失脚を狙ったのか、あるいは、家康さまと利長さまを離反させて、反徳川で立たそうとしたなど、いろいろ想像はできますが、不可思議な事件でございました。
家康さまは、ここぞとばかりに利長さまを糾弾し、利長さまも急いで金沢城の修築をしたりして戦う準備もしました。百間堀という立派な堀が金沢にはございますが、これは、この頃に前田家の客分だったキリシタン大名の高山右近さまが作られたものだそうです。

しかし、利長さまにとって誤算だったのは、母親のまつさまや妻で信長さまのご息女である永姫が、大坂にいたので事実上の人質となってしまったことです。
結局、利長さまは、母のまつさまを江戸に移すという条件をのまれて屈服されました。このとき、まつさまは「お家の存続が大事だから、私の身のことはどうなっても気にするな」と利長さまにおっしゃいました。これは、前田家にとってそれがいいなら反徳川で立ち上がって、結果として、自分が殺されても気にするなという意味のはずでございました。
しかし、母思いの利長さまは身動きがとれず、結局は前田家はなんとか続いたものの、利長さまには子どもがなく、同じく、まつさまの子である利政さまは、関ヶ原の戦いでは西軍寄りの立場をとられたので改易され、庶弟の利常さまが秀忠とお江の娘である珠姫と結婚して跡を継がれました。こうして、まつさまの血脈が前田家に伝えられないことになってしまったのは残念なことでございます。
私も、誰よりも頼りになる友人まつさまとの別れになったのでございます。※1
「豊国大明神」という神号で祀られた秀吉
この年には、秀吉に後陽成天皇から「豊国大明神」の神号が下賜され、壮麗な豊国神社が建設されることになりました。
秀吉の墓と豊国神社について申し上げておきましょう。秀吉は、方広寺の大仏の鎮守として、新たな八幡として自らを祀るよう望んでいました。しかし、朝廷では「豊国大明神」という神号で祀られることになりました。
日本の古名である「豊葦原中津国」を由来としつつ、豊臣の姓を採り入れたものです。葬儀は神式で行いましたので、その日のうちに甕に入れて伏見城から運び出し、京の阿弥陀ヶ峰に埋葬されました。別れを惜しむという時間さえなかったのです。※2
そして、方広寺の南側には、北野天満宮に倣った八棟造りの豪壮な神社の建築が始まりましたが、秀吉の死は秘密だったので、京の人々は方広寺の鎮守かと思われたそうです。
吉田神道の吉田家によって主宰され、吉田兼見が取り仕切り、弟の神龍院梵舜が、豊国社内の神宮寺の社僧になりました。 この梵舜は、大坂夏の陣で私の面倒をよく見てくれた人です。
このとき豊国神社があったのは、現在は樹下社があるところです。七条大橋から東山を進むと右側に三十三間堂があり、七条通の突き当たりを少し北に行き右折して女坂を上がっていくと、左が妙法院で、右に智積院がございますが、この智積院は鶴松の菩提寺である祥雲寺があったところです。
女坂を上がっていくと、右に樹下社があり、左に京都女子大学があるのですが、このあたりが豊国神社があった場所です。そして女坂の突き当たりから石段があって、これを登っていくと阿弥陀ヶ峰の頂上に豊国廟があって、これが秀吉の墓です。

以前は、京都駅の駅ビルあたりからも石段がよく見えたのですが、最近では、樹木が多く繁ってしまい遠くからは何も見えなくなっているようで残念です。三十三間堂の標高は38メートル、阿弥陀ヶ峰は196メートルです。石段は489段あります。※3
ただし、大坂夏の陣のあと、残念なことにこの神社は壊されたのですが、明治の頃に私の実家である、足守藩と日出藩の木下家が復興を提案し、明治天皇から許可されました。
ただし、その場所はかつての方広寺大仏殿の場所です。五条と七条の間にある正面通りを東へ行くと真正面にあります。正門になっている唐門は伏見城にあったものを南禅寺金地院を経てもってきたものです。

※1 大坂の陣のあと、1617年にまつは上洛を許されて次男の利政に会っているが、このときに寧々とも会った。
※2 秀吉の遺体埋葬が急がれたのは、神道で穢れを嫌ったためで、朝鮮の戦いのために隠したからではない。家康の遺体も、その日のうちに久能山に移されている。
※3 1897年(明治30年)に福岡藩主の黒田長成侯爵と徳島藩主の蜂須賀茂韶侯爵らが中心となり、阿弥陀ヶ峰山頂に伊東忠太の設計になる巨大な石造五輪塔が建てられ、翌年、豊太閤三百年祭が挙行された。このとき、土中から素焼きの壷に入った秀吉の遺骸が発見されたが、その場で崩れ落ちてしまい、そのまま埋葬されたので調査はされなかった。
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- shiii / PIXTA
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- イラスト:ウッケツハルコ







