「秀頼がバカ殿であれば…」徳川安泰のために家康が巡らせた策略

亡くなっていく秀吉の腹心たち
慶長17年(1612年)になると、大坂城ではようやく千姫が女らしくなってきました。この年に侍女が鬢(びん)そろえを千姫に行い、秀頼が手伝っているのを目撃しています。千姫と秀頼が名実ともに夫婦になったのが、このときだと思います。
ともかく、千姫が豊臣家の跡取りを産めば、徳川家との交渉も大変やりやすくなり、双方にとって満足できる余地も広がるわけですから、一生懸命に子作りに励んだのです。
もし、千姫にお子が生まれていたなら、豊臣と徳川、さらには織田の家までがひとつの家のようになれたわけで、互いの面子をつぶさずに、共存することが可能だったでしょう。男の子なら天下は豊臣に任すが、東日本は徳川の領地とか、娘が生まれたら、徳川の誰かと結婚させることもあり得ない話ではありません。
織田については、茶々と江が秀頼と家光さまの母ですし、さらに、秀忠と江の次男である忠長の正室は、信雄さまの孫娘(信良さまの娘)がのちになっています。
加藤清正が亡くなっても、まだまだ豊臣恩顧の大名の多くは健在でした。しかし、慶長18年(1613年)には私が頼りにしていた大名が2人も亡くなりました。
1人は姫路の池田輝政です。輝政は、家康さまの姫で北条氏直さまに嫁がれていた督姫と結婚していました。輝政の最初の結婚相手は、中川清秀さまの姫ですから両方とも再婚です。

のちに、池田家は岡山藩と鳥取藩の殿様になりますが、これは、中川家の姫から生まれた嫡男の利隆が本家を嗣いで岡山藩となり、督姫の子である池田利雄の子孫が鳥取藩を創ったという事情によるものです。
輝政は、督姫の子に与えられた領地も合わせると100万石近くとなり、西国将軍などと呼ばれていました。豊臣家との長い関係を考えれば、性急に秀頼を追い詰めるようなことはなさそうでした。
もう1人は、紀州の浅野幸長です。私の甥にあたります。そのあとは、弟の長晟(ながあきら)が継ぎましたが、幸長より10歳も年下でしたから、私も含め豊臣家との馴染みは薄かったのです。
大坂夏の陣のあとですが、長晟は家康さまの三女で蒲生秀行未亡人の振姫と結婚します。振姫は産褥(さんじょく)で死んでしまいますが、生まれた光晟は家康さまの孫ですから、浅野家は広島藩主として安泰となりました。そして、九条家へ嫁した豊臣完子の子孫が浅野家に嫁ぎましたので、うれしいことに浅野家には豊臣の血が残ることになりました。
このように、姫路と和歌山という大坂の西と南を押さえる豊臣恩顧の2人がいなくなったことは、豊臣家にとって大きな痛手でございました。
この頃、家康さまはキリシタン弾圧を本格化させています。ひとつには、ポルトガルがキリスト教布教を梃子(てこ)に侵略する意図を持っているなどと、オランダがあることないことを家康さまに吹き込んだことがございます。
ポルトガルは海岸の拠点を建設することはしていましたが、内陸に広がる植民地をつくるなどしていませんし、マカオも明帝国の主権のもとでの居留地にすぎませんでした。
しかし、家康さまはそれ以上に、キリシタンと豊臣家が手を結ぶことを警戒したのでしょう。駿府城の奥女中だった「おたあ(ジュリア)」が伊豆大島に流されたり、本多正純の家臣である岡本大八が火炙りにされたりもしていました。
豊臣と徳川が共存できる世にはしたくなかった
大工の総元締めである中井家に命じて、大坂城の図面を手に入れたことで、戦いの準備は万端ということになりました。
大久保彦左衛門の兄で小田原城主だった忠隣は、秀忠がもっとも頼りにしていた人でした。ところが、慶長19年(1614年)の1月に京都へキリシタン取り締まりで出張していたところ、改易されてしまいました。
この大久保家は、本多や酒井などと並ぶ譜代の家系で、松平家の勃興期から仕えていました。親戚も多く、旗本にもたくさんの大久保家がございます。忠隣は父である忠世の跡を継いで小田原城主であるとともに、秀忠付きの家老でした。
ところが、家康さま側近の本多正信・正純の親子と不仲で足を引っ張り合い、慶長17年(1612年)には、本多家臣の岡本大八がキリシタンとして火あぶりにされる事件があり、逆に佐渡の奉行などを務めていた大久保長安が、その死後に不正蓄財で告発された事件が起きました。
改易の理由としては、無断で養女を結婚させたといったほかに、豊臣方との内通も上げられました。江を妻として、千姫を秀頼のもとに送り込んだ秀忠の意を呈して、忠隣が大坂方に対してやや融和的であった、少なくとも無理難題を押しつけるようなやり方に賛成しなかったから、ということはあるのでないでしょうか。
家康さまは、豊臣と徳川が両立できるような「良い知恵」が出て、それに豊臣恩顧の大名や朝廷が支持するのを怖れていたのでございます。家康さまが豊臣家を卑劣なやり方で滅亡に追いやったことは、戦国の世でも異例でした。まさか女たちに穏やかに接する老人が、そこまでするとは予想できず騙されたのです。
この年の5月には、前田利長が越中の高岡で亡くなりました。不用意に大坂を離れて、金沢に帰国したところを家康さまにつけ込まれて、母であるまつさまを人質に取られ、秀頼のお守り役の使命を果たせなくなった利長ですが、正式に五大老やお守り役でなくなったわけではありません。
大坂方から、いざというときには味方してくれるのかと聞かれたときには、羽柴肥前守(利長)としては味方するが、跡を譲った松平筑前守(利常)には徳川の娘婿として別の判断がある、などと回答していました。
そして、東西開戦になれば大坂方につかねばならないと思い、わざと死期を早められたとの噂でした。
ただ、心残りは誰よりも大事な母のまつさまに再会できなかったことでございましょう。まつさまが、利常さまのご母堂と引き替えに金沢に戻ったのは、利長の死後で、この途上に、まつさまは利長の居城であった高岡を訪れて息子を偲んでおられます。
また、加賀にはキリシタン大名の高山右近が領地を放棄されたあと寄寓されていたのですが、10月にルソンに向けて海外追放されたのでございます。

- 写真 :
- Kei1962 / PIXTA
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- イラスト:ウッケツハルコ







