「秀頼がバカ殿であれば…」徳川安泰のために家康が巡らせた策略

「墓参りをする」二度と戻らなかった孝蔵主
私がどうしたらよいかがわからなくなったのは、頼りにしていた孝蔵主が、この春に江戸の秀忠のもとに移ってしまい、いなかったことがあります。
孝蔵主は蒲生旧臣である川副勝重の娘です。秀吉のもとで女奉行といってよいほどの辣腕ぶりを発揮し、秀次を聚楽第から連れ出して伏見へ送り出したとか、大津城の開城を勧めた際に登場したことを憶えておられる方も多いことと思います。
いずれにせよ、長年にわたって私の右腕だった彼女が徳川方に移ったことには、皆が不思議がりました。私と仲違いしたという人もいますが、そんなことはありません。墓参りなどしたいので、しばらく留守したいと言って姿を消して、そのままいなくなったのです。

なかなか帰ってこないと心配になり、何か言ってなかったかと周りに聞くと、駿府の家康さまから折り入って話したいことがあると誘いがあり、駿府へ行ったところ、秀忠が会いたがっているから江戸へ寄っていくようにと言われ、そのまま帰れなくなったというのです。
人づてに、秋ごろには戻れるだろうと聞きはしましたが、そのままでした。京都所司代の板倉も、のらりくらりしていましたが、私の処遇に不満を持っていたなどという人もおり、よくわからないままでした。
しかし、交能力抜群の孝蔵主が、私のもとにいると余計な動きをすることを心配した家康さまが、強引にか、好条件で釣ったのか、あるいは、東西の架け橋になってくれとか言ったのかはわからないのですが、私から引き離したのです。
このために、私は大坂冬の陣や夏の陣のあいだ、まったく指をくわえて傍観するしかなかったのです。夏の陣が終わったあと、伊達政宗に「なんとも申し上げようもありません」と書いた手紙がありますが、それはこうした無力感があったからです。
秀忠と江ですが、この戦いは秀忠の意向とは関係なく、家康さまが勝手に進めました。大義名分のない戦いに秀忠が責めを負うのを避けたという人もいますが、家康さまはそんな甘い人ではありません。
秀忠が、江や千姫の願いで豊臣存続に動くような可能性を徹底して封じたというだけです。おそらく江は、鐘銘などを口実に茶々を追い詰めた家康さまのやり方を、秀忠に抗議したでしょうが、秀忠が意見などを言える余地は徹底的に封じられていたのです。
しかし秀忠とすれば、ご隠居の家康さまの主導ですべて片付いてしまえば面目丸つぶれですし、戦後処理についての発言権もなくなります。そこで、先に進発した家康さまを追って猛スピードで西へ向かいました。
掛川から吉田(豊橋)までの70キロを1日で進むということもあったほどで、家康さまから兵が疲労困憊すると叱られたほどでした。
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- イラスト:ウッケツハルコ







