大阪城炎上し豊臣家滅亡するも…令和につながる秀吉と寧々

大阪城炎上を見て「どうだ!」
こうして、真田幸村も戦死し、毛利勝永がなんとか兵をまとめて城内に撤退しました。ここで大野治長は、ようやく茶々と秀頼の助命嘆願の交渉に乗りだし、千姫を城外に脱出させ、千姫は祖父と父に助命を願ったようですが、家康さまが聞き入れるつもりがないことははっきりしていました。
家康さまが「将軍さま次第」といい、秀忠が「一度だけでなく何度も戦いを挑んだのだから仕方ない、早々に腹を切らせよ」と仰ったともいいますが、秀忠は家康さまの意図するところはわかっていましたから、そう言うしかありません。
茶々と秀頼は、山里丸の糒櫓(ほしいいやぐら)に隠れました。しかし、片桐且元がその場所を見つけ出し、井伊直孝から大野治長に助命は叶わない、という最後通告があったと言います。この役目を、最初は藤堂高虎に命じようとされたのですが、さすがに浅井旧臣で長政から姉川合戦で感状をもらったこともある高虎は固持しました。
最期を共にした者には、大蔵卿局や長政の従姉妹にあたる饗庭局など、浅井家ゆかりの何人かがおりました。浅井ゆかりの者が、家康さまの掌の上で踊らされて敵と味方に分かれ、とどめを打たされたわけです。
且元は、戦後、4万石に加増されましたが、20日のちに亡くなりました。秀頼を助命してもらうために徳川に協力したつもりが、思いも掛けぬ結末になって、生きていくわけにはいかなくなったと噂されたのでございます。
大坂城が燃え上がるのを見て、家康さまは大政所さまの妹を母とする小出三尹(こいで みつただ)に、「どうだ」と声をかけられたそうです。
三尹は「思し召しの程は心得ず候えども、三尹は未だかかる憂てきことには逢い候こと無し。(おっしゃりたいことは承知いたしておりますが、三尹は思いのままにならないことに直面し、今もなお深い悲しみが続いています)」と真情を吐露したので、家康さまに諂(へつら)って祝いを述べていた諸大名も恥じ入ったといいます。

京都からも、大坂の方角の空が赤く染まるのが見えました。私がいた三本木の屋敷に近い御所では、清涼殿の屋根に上って眺める公家もいました。
気の毒なのは、秀頼の子の国松です。若狭で里子に出されていたのが、初と一緒に入城し、戦いが始まったので城内に入っておりましたが、そののちに逃げ出したものの囚われ、六条河原で斬殺されました。
一方、娘は千姫の嘆願で助命されて、鎌倉の東慶寺に入って尼となりました。
冬の陣が始まる前に、甥で私の警護をしていた木下利房は、徳川方に付くことも仕方ないと思ったのです。やはり、実家を絶やしたくはないのです。
そのうえで、秀頼と茶々を説得に大坂城に向かったのですが、どうせ聞き入れられないと思っていたので籠城覚悟でした。しかし、鳥羽の当たりで、徳川の兵に押しとどめられて引き返しました。
夏の陣のときは、利房が出陣せず、私を監視するようにと言いつかっておりましたので、何もできませんでした。
豊国神社への参詣が唯一の楽しみ
それから私は9年間生きておりました。戦いが終わったあと、二条城での能興行に招待されたこともありますが、だからといって何も私の望みは聞いてくれませんでした。
気心をよく知った女たちも周りにはあまりおらず、唯一の楽しみと言えば豊国神社へ参ることだけでございました。けれども徳川は、秀吉は神にふさわしくないといって、神社を取り壊すように命令しました。
私が家康さまに愁訴したところ、崩れるままにということで取り壊しは免れましたが、やがて、智積院の境内になってしまって参拝もできなくなりました。
私は、寛永元年(1624年)の9月6日まで生きていました。浅野長政の妻であった妹のややは、元和2年(1616年)に江戸で死んでしまいました。医師の三折全友の妻だった姉(長慶院は本名不明)は、私より1か月先に死んだのですが、それまでは行き来しておりました。
兄の木下家定の長男・木下勝俊(1569-1649)、次男で足守藩主の木下利房(1573-1637)、三男で日出藩主の木下延俊(1577-1642)、八男で建仁寺の僧となった周南紹叔(?-1633)などは、いずれも私の晩年も元気で、しばしば訪ねてきてくれました。
勝俊は剃髪して高台寺の南隣りに挙白堂を営んで、長嘯子と号して歌人として名をなしていました。上御霊の康徳寺は、私が母の菩提を弔うために創建しましたが、高台寺は、その康徳寺を豊国神社にも近い東山に移したものです。そこに隣接して私の屋敷もつくりました。現在の円徳院です。
私は相変わらず御所の近くの三本木屋敷(京都新城)に住んでおりましたが、円徳院で過ごすことも多かったのです。

また、俊房の子の利次を養子として育てて羽柴姓を名乗らせ、私の領地だった河内1万6千石を相続させました。しかしながら、徳川幕府はこれを認めず、近江で3千石のみを与えて木下姓の交代寄合にしてしまいました。ただ、豊臣家の祭祀を引き継ぐことは認められました。
また、この利次から女系で天野家、押田家を通じて、11代将軍家斉の側室になった香琳院は、12代将軍家慶を生みました。これにより、私の実家である木下家の子孫が、天下を取ったことになります。その家慶のお子が13代将軍家定であり、その継室が天璋院篤姫でございます。
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- Masa Kato / PIXTA
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- イラスト:ウッケツハルコ







