大阪城炎上し豊臣家滅亡するも…令和につながる秀吉と寧々

死の直前まで寧々が手掛けた大仕事

この頃のことになると、私も重病を繰り返したこともあって記憶もあやふやになっておりますが、死んだ寛永元年(1624年)の4月には、黒田官兵衛さまの未亡人がやってきたことを梵舜が日記に残しています。その前年に息子の黒田長政が京で死んでおりましたが、そのまま京に住まわれていたのです。この頃は、隠居して京に住まう方は多く、ときどき、こうした人たちが私を訪ねてきてくれました。
私にとって最後の大仕事になったのは、高台寺の住職に甥の周南紹叔(しゅうなんしょうしゅく)を住職とするために、高台寺を曹洞宗から臨済宗の寺に変えることでした。曹洞宗に抵抗されたり、実力者だった金地院に邪魔されたりして、これがなかなか大変だったのです。2年ほどかかって、私が死ぬ3日前に、ようやく周南紹叔の師である建仁寺の三江紹益が住職となり、やがて周南紹叔に譲られました。
それから、時は流れ、幕府が倒れたあとの慶応4年(1868年)閏4月、豊国神社の再興を布告する沙汰書が下されました。明治天皇が大阪に行幸されたおりに、木下家の奔走もあって、秀吉を「皇威を海外に宣べ、数百年たってもなお寒心させる、国家に大勲功ある今古に超越するもの」であるとのことです。
1873年(明治6年)別格官幣社に列格、1875年(明治8年)には東山の地に社殿が建立され、1880年(明治13年)には、方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成いたしました。
また、黒田長成侯爵や蜂須賀茂韶侯爵らが中心となり、1897年(明治30年)に阿弥陀ヶ峰山頂に、伊東忠太の設計による石造五輪塔が建てられ、土中から素焼きの壷に入った秀吉の遺骸が発見され、丁重に再埋葬されました。
また大阪城では、昭和1931年(昭和6年)に昭和天皇の即位記念に合わせて、秀吉を慕う大阪市民の寄付で鉄筋コンクリートの天守閣が完成いたしました。伏見城趾は、やはり秀吉のことを大事にしてくれた明治天皇が自らの陵墓にとしてくださり、伏見桃山御陵になっております。
そして、ここにも天守閣が欲しいということで、1964年(昭和39年)に城跡の端っこあたりに天守閣が完成いたしました。大阪城天守閣は白い総塗籠ですが、こちらは黒・赤・金などで飾られており、映画のロケに大阪城として使われることがあります。
また、私が創建した高台寺も立派に維持されており、付近の道も「ねねの道」などと呼んでいただいております。

この連載の第1回でも書きましたが、私は夫の秀吉がこのところ不人気なのが残念でございます。江戸時代でも『太閤記』は人気でしたし、明治になると帝を大事にした忠臣と誉められ、戦後も出世を目指すサラリーマンの理想だったのです。
NHKの大河ドラマでも、初めて城主になった長浜時代の頃などは、私だけでなく、義母の「なか(のちの大政所)」や義弟の小一郎(のちの秀長)、二人の姉妹など血縁者の情愛や協力で秀吉を支えたことを、ホームドラマ的に描いていただいております。由緒ある戦国武将の家と違って、普通の家族に近かったのが、現代の人たちにも共感を持っていただけるのでしょう。
ところが、秀吉の役は、出世するにつれて、品がなくてがさつで、好色で好戦的で陰謀好きとか、ひどい扱われ方でございます。でも、秀吉がそんな人間なら天下を取ることなどできるはずもございません。
そういう風潮を残念に思っていたところ、あの世の私が、令和という年号の現世の方のために、私と藤吉郎の一生を振り返って語るという趣向で、この連載を始めさせていただいたのです。
私の記憶が不確かなところは、令和の専門家の皆さんのご意見を参考にさせていただきました。
長い連載でしたが、ご愛読ありがとうございました。
近いうちに、もう一度整理し直して、後日談なども補い、また、読者の方からご質問が多かったところも含めて、電子ブックのようなものにしたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
- 写真 :
- Masa Kato / PIXTA
- 自由入力 :
- イラスト:ウッケツハルコ







