関ケ原の戦いの原因に。秀吉の死を知らずに戦い続けた朝鮮遠征

慶長の役が開戦するも現地では大名同士が対立

日本軍は慶長2年(1597年)6月、釜山に集結して「慶長の役」が始まります。
朝鮮水軍の元均(ウォン・ギュン)という人は、総大将の権慄(クォン・ユル)から日本艦隊への攻撃を命じられますが、水軍を再建したといっても、正面から当たるのは厳しいとして、小規模な攻撃を何度か行って失敗したあと、釜山の西にある巨済島に停泊しました。
日本軍は7月半ばに、海上から一斉攻撃して上陸した部隊と挟撃して「漆川梁海戦」で敵を全滅させ、元均や李億祺(イ・オッキ)なども戦死しました。
前回、兵站戦が延びて失敗したことに懲りて、日本軍は南部をしっかり固めることを優先します。目的が明国征服から、朝鮮王国を屈服させ王子を日本に送らせ、半島南部の統治体制を固めることにあったので当然でございます。
とくに穀倉地帯である全羅道の確保に努めました。ここはかつて、任那といって日本領だった土地でございます。秀吉は、地図で赤く塗られていたことから、「赤国」と呼んでおりました。田畑を耕させるために、好条件で投降を薦めたりして、領土として支配する体制をだんだんとつくっていきました。
朝鮮では、元均と対立して引退していた李舜臣(イ・スンシン)を将軍に復帰させました。そして、9月には朝鮮の李舜臣の水軍が、釜山から西に向かっている日本の水軍を阻もうとした鳴梁海戦が起こります。
李舜臣は半島南西端の潮流れが強い海峡に陣取ったので、藤堂高虎は、村上水軍の来島通総(くるしま みちふさ)に中型船で攻めさせますが、失敗して来島通総は戦死いたしました。病気で戦没死したとか戦いでの傷が原因で死んだ大名は何人かおりますが、広い意味ではただ一人の戦死者でございます。
この鳴梁海戦、韓国では鳴梁大捷(鳴梁大戦)と呼ばれ、李舜臣が日本の大艦隊に圧倒的な損害を与えて勝利した戦いとしたとされておりますが、「日本の軍船30隻と衝突」「朝鮮船12~13隻と戦闘」しただけです。
日本水軍は全羅道西岸まで進出し、姜沆(カン・ハン)や鄭希得(チョン・ヒドゥク)などの多くの捕虜を得ました。姜沆は、のちに日本での生活について『看羊録』を残し、藤原惺窩に朱子学を教えた人です。
それまでの儒学は、処世訓のようなものか、それとも禅宗のおまけみたいなものだったのですが、姜沆らが両班による統治論理としての朱子学を持ち込み、これを德川家康さまが気に入って江戸幕府の正式の学問にされたので、朝鮮式の封建思想が日本に入り込みました。
武士たちの行儀が良くなったのはいいことなのですが、男女を厳しく区別するとか、身分制度を厳しく運用するとかというのは、あまりいい影響ではなかったかと思うのでございます。※1
この頃、和平交渉で小西行長と話し合った沈惟政は北京に帰りましたが、交渉の失敗の責任を取らされ死刑にされたそうです。そして、大軍を朝鮮に差し向けましたので、朝鮮だけを相手にして明には中立を守らせようとする行長の作戦は、とりあえず失敗しました。
明の大軍が南下してきたので、忠清道(現在の韓国の中西部)を北上して漢城に迫っていた黒田長政は、漢城の手前で明の主力と遭遇し、日本軍は引き返して海岸部に堅固な5つの城を築いて守りに力を注ぎました。
日本側の要求は、慶尚道(現在の韓国の南東部)、全羅道(南西部)、忠清道(中西部)、江原道(中東部)の割譲というものでしたので、漢城を落とすより、計画では慶長3年(1597年)は統治をしっかり固め、慶長4年に漢城を総攻撃して雌雄を決するつもりでした。
しかし、12月になると、明軍は楊鎬の率いる約5万の大軍を持って進軍を開始し、釜山の東に築城中だった蔚山城を総攻撃しました。そこで加藤清正が蔚山城に入り、浅野幸長と共に守備しましたが、城は未完成でしたし、食料もなく大苦戦でした。
しかし翌年(1598年)の1月3日、毛利秀元・吉川広家・黒田長政・蜂須賀家政・宇喜多秀家・小早川秀秋・立花宗茂などが率いる、約1万3千人の援軍が到来、海上からも長宗我部元親の水軍が到着して包囲中の明軍を撃退しました。
このとき、明軍は2万人以上の死者を出したといわれます。ただ、蔚山城の戦いで最後まで城を守り、何倍もの明の大軍を相手に奮戦した加藤清正や浅野幸長ですが、彼らの功績はあまり認められませんでした。さらに、彼らを助けるために戦った小早川秀秋は、自ら先頭を切って戦っていたため「大将なのに軽率すぎる」と報告され、評価されるどころか処罰対象に。
蜂須賀家政も、加藤清正や浅野長政を救援しますが、「最初は戦ってなかった」「追撃しすぎて戦線を広げすぎた」などと言われ、むしろ領地の一部を没収、黒田長政も同様に「消極的だった」と報告され、秀吉から処罰を受けています。
毛利家の朝鮮派遣軍の大将だった毛利秀元と、その麾下の吉川広家も、この戦いでもっとも大きな功績を挙げたにも関わらず、決戦の前の日に抜け駆け的に夜襲を行ったため、同じ毛利軍にいた安国寺恵瓊さまに「あいつら軍令違反だ!」と報告され、不穏な状態になりました。
こうした検分をしたのは軍目付と呼ばれる人たちですが、石田三成系の大名が主だったので、のちのち問題になります。※2
また、真偽は解りませんが、朝鮮側の記録には「小西行長が加藤清正の上陸を密告してきたが、李舜臣は罠かと思い攻撃しなかった」というものがあるようです。これが本当とは思えませんが、裏取引であっても最低限の要求が通ったら和平に持ち込みたい三成や行長と、交渉を壊そうと暗躍する清正とは激しく対立いたしました。
秀吉も表面的には強硬策ですが、行長たちの交渉をなかば黙認していました。それが誤解のもとになり、三成・行長と清政の対立の原因になって、これが関ケ原の戦いの原因になったわけですから、返す返すも残念なことでございました。

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- イラスト:ウッケツハルコ







