関ケ原の戦いの原因に。秀吉の死を知らずに戦い続けた朝鮮遠征

秀吉の死を知らず戦う大名たち
日本軍は、各地で城の守りを固め、兵糧や武器も大量に運び込んでいきます。翌年に攻勢をかけるための準備だったようで、そのためか主力の一部は再出兵に備え、一旦帰国しています。
1598年8月、残念なことに秀吉は死んだのですが、その死は遠征軍には伝えられませんでした。この頃、明・朝鮮の総勢10万以上の大軍勢が迫ってきていました。9月には蔚山に麻貴という明の大将が約3万人の軍勢で攻撃を行いますが、加藤清正らが奮戦したおかげで撤退します。
中央部の泗川城では島津義弘が守り、明軍の総大将である董一元が率いる、20万と号された明の大軍が城を包囲しようとしますが、これを引き付けての一斉掃射で明軍は蜂の巣にされます。このとき日本軍は地雷を使ったといわれてます。島津義弘は「鬼石蔓子(鬼シマヅ)」と呼ばれ、恐れられることになります。
南西部の順天城では、1万3千の兵で小西行長が守っていました。明・朝鮮軍は明の勇将劉テイと朝鮮の総大将・権慄が率いる、約2万5千の軍勢で攻撃、海からも約2万5千の水軍が攻勢をかけます。
ここでは海からの強襲に加えて、陸から多数の攻城兵器(雲梯と呼ばれるはしご車や、飛楼と呼ばれる移動式やぐらなど)を使った攻撃が行われました。しかし、日本軍の鉄砲射撃と焼き討ちによって攻城兵器はことごとく燃やされ、海からの攻撃も明の船団が干潮で座礁するなどして、失敗が続いてしまい攻撃を断念しました。
この戦いの前、和平交渉を持ちかけられた小西行長がそれに応じようとして出ていき、生け捕りにされそうになって、命からがら逃げたという一幕があったようです。
ところが、勝った日本軍が急に撤退の準備をしているのを見て、朝鮮側も秀吉が死んだことを察知し、李舜臣が率いる朝鮮水軍が撤退の阻止に動き、順天城周辺の海域を封鎖、小西行長は脱出できず窮地に陥ります。しかし、小西行長のピンチを聞いて、島津義弘と立花宗茂が艦隊を率いて救援に向かい、露梁海戦が起こります。
救援に向かう日本軍を、明と朝鮮の水軍が待ち伏せし、挟撃する形で始まりました。しかし、明水軍の副将である鄧子龍が、突出しすぎて日本の軍船に包囲され、それを救援しようと李舜臣が前に出て、こちらも日本の軍船に囲まれ、乗り込んできた日本兵に船尾から鉄砲で撃たれて落命したようです。鄧子龍も共に戦死しており、ほかにも明と朝鮮は多くの指揮官が戦死して、海域の封鎖が解かれて小西行長軍は脱出に成功し、日本側の撤収は支障なく行われました。
李舜臣という人は、韓国の国民的な英雄です。ソウルのメインストリートにあたる世宗大路に巨大な銅像がありますが、局地戦では勝利を挙げているものの、一貫して対馬海峡の制海権は日本が握っていましたし、露梁海戦でも結局のところ敗北して、自身も戦死していますので、なぜ名将なのかよくわかりません。
のちの時代で帝国海軍の東郷平八郎元帥が、李舜臣のことを世界の海軍史上で三大名提督の一人だと言ったという話がございますが、元帥と会ったという韓国の方が仰っているだけです。陪席者もないし、単に相づちを打ったり、リップ・サービスしただけかもしれないので、嘘と断定もしませんが、あてになる話ではありません。

私には政務の相談役は荷が重かった
秀吉が亡くなったあと、遺体はその日のうちに東山阿弥陀峰に移され埋葬されましたが、これは神になることを望んだ秀吉のために、葬儀が神式で行われたためです。しかし、朝鮮からの撤兵を円滑に進めるために、その死は注意深く秘密にされました。このため、豊国神社の工事が始まっても、大仏殿の摂社か何かの工事では? と京都の人たちは思っていたようでございます。

そして私や茶々、秀頼に大坂城に移るようにと前田利家さまが言われました。茶々は住み慣れた伏見城を去るのをイヤだったようです。ただ、利家さまは遺言ということで譲らず、翌年の正月早々に実行されます。堅固な大坂城にいるほうが安全だというのが、秀吉の考えだったのでございます。
家康さまは、秀忠さまに江戸へ戻れと命じられました。危険を避けるためと、いざというときに関東から軍勢を率いて上洛できるようにするためです。
茶々の妹の江も、しばらくして江戸へ移ることになりました。家康さまは「しばらくのことだ、富士の山を眺めながら暮らすのもいいものだ」などと、明るく言われたと聞きましたが、三姉妹が今後のことなどを話し合って、さらに、それに秀忠さまが影響されたりすると面倒だと用心深く考えられたのでしょう。
茶々と江が会ったことはそれ以降、一度もありません。姉妹の意図しない生涯の別れだったのでございます。
三姉妹のうちの真ん中で京極高次の妻である初は、高次の姉妹で、秀吉の側室で松の丸殿といわれた竜子を連れて大津城に戻りました。秀吉は亡くなる年に初にも近江に2千石の領地を与えております。寿命を悟ったのか、自分の死後に茶々や秀頼を助け、あわせ竜子の面倒も見るようにという趣旨でした。
大津城は、現在の浜大津港のあたりにございました。京都から逢坂の関を過ぎて、谷間を縫うように東海道を行くと、突然に視界が開けて琵琶湖や比叡・比良の山々が眼下に広がります。
そこからなだらかな坂道を下っていくと浜大津港があります。そこが大津城の本丸跡でございます。いちばん低いところに本丸がある「穴城」ですが、幾重もの堀が巡らされ、それが江戸時代には水路として利用されていましたので、その痕跡くらいは今でも見つけることもできます。
「近江八景」というのがありますが、大津城の天守閣に上れば、比良の暮雪が遠くに姿を見せ、真っ白い帆船が湖を行き交い、三井の晩鐘の美しい音色が湖面に流れていきました。
とくに感動的なのは春霞と虹でございます。元禄の頃、松尾芭蕉という俳人が、「ゆく春を 近江の人と惜しみけり」という句を詠みました。昭和の作家である司馬遼太郎という人は、この句の“近江”をほかの地名に置き換えても成り立たないと書いています。琵琶湖に立ち上る春の霞とか、近江の人のやわらかさがあってこその句だというのです。
近江は虹の多い国でもあります。夏の雨上がりなどには、琵琶湖の上にそれはそれは大きな虹が架かるのでございます。虹のことをフランス語では「アルカンシエル(空に架かるアーチ)」と言うそうですが、それが実感できます。
しかし、そのときは、わずか2年後にこの大津城で、初の生涯で三度目の落城を経験することなど想像もしていなかったことでございましょう。
一方、秀吉の遺言では、私は大坂城から伏見城本丸に移り、家康さまが政務を指揮するうえでの相談役になるように、というようなことでした。しかし、私としては秀吉を失って気弱になっているところでしたし、利家夫人のまつさまが側にいて欲しいと思い、とりあえずは大坂城の西の丸に住むことにいたしました。家康さまと天下のまつりごとを一緒にみるというのは、私にとって少し荷が重すぎました。

※1 それまで日本には、卑しまれた身分とかがなかったわけでないが、それを厳しく固定的なものとし、過酷な同和問題を生じさせたのは、江戸時代になってからだとされる。
※2 二度目の朝鮮出兵では、日本軍が「朝鮮の人々の耳や鼻をそぎ取った」と伝えられている。これは、日本まで海を越えて首を持って帰るのは手間がかかるため、手っ取り早く鼻で戦功の検分(討ち取った敵の評価)を行っていたもので、「罪もない女子供の耳や鼻まで取った」と言われているが、もしそういうことがあったら「手柄の虚偽申告」なので奨励されたはずがない。そぎ取られた耳を集めた「耳塚」が朝鮮各地に作られているが、朝鮮軍や中国(明)軍は討ち取った敵兵の耳で戦功の検分を行っていたが、日本では鼻なので混同されているようだ。
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- イラスト:ウッケツハルコ







