秀吉の死後も京で人気があった豊臣家に対する家康の嫌がらせとは?

江がついに男の子を出産!
江が関白秀次の弟である小吉秀勝とのあいだに、1人の娘をもうけたことはお話しましたが、秀忠に輿入れするときに、この娘を茶々のところに残していったのでした。
慶長9年(1604年)には、その子も13歳になりましたので、茶々と私が相談して、京の九条家の幸栄さまに輿入れさせることになりました。もちろん、豊臣家の姫としてです。
茶々は張り切って嫁入り道具をそろえ、九条家のためには豪華な御殿まで建てて、京の人々を驚かせました。この姫は、のちに完子と呼ばれるようになりましたが、幸栄さまとのあいだに多くの子をなしました。
いちど二条家に養子に出た子を経由してですので、少々ややこしいですが、幕末から近代にかけての九条家にも、そのDNAは伝えられました。大正天皇の貞明皇后を通じて今上陛下にも、浅井や豊臣の血は受け継がれているということになります。※1
一方、江戸からは、ついに江が男の子を出産したという報せがございました。わたくしも茶々も大喜びでした。これで、豊臣家にも徳川家にも、浅井や織田の血が流れることになりました。
この頃、大坂城で茶々たちを支えていた側近のなかには、茶々の叔父にあたる織田信包さまや長益さま、それに従兄弟の信雄さまがおりましたが、いずれも織田家は女たちのおかげで天下を取り戻せると言わんばかりの喜びようでございました。
8月になると京で豊国神社の臨時祭が開催されました。秀吉の七回忌でしたが、京の都が始まって以来というような賑わいとなり、京の民衆に秀吉がいまだ慕われていることを家康さまに見せつけることになりました。

朝鮮の役のことなどあり、秀吉が嫌われていたと言う人もいますが、それなら、この熱狂ぶりはどう説明できるのでしょうか。応仁の乱で荒れた京を復興し、朝廷の威信を回復し、平安建都以来の大改造を施して近世都市として蘇らせてくれた恩人に対する正しい評価でした。
大名衆は徳川の目を気にして姿を見せませんでしたが、家康さまにとって不愉快な出来事であったことは風の便りに聞きました。
また、この年に私は出家し、帝(後陽成天皇)から高台院という院号を賜ることになりました。
慶長10年(1605年)には、第二代将軍に秀忠がなりました。豊臣に天下を返すつもりがない意思表示だったとする人がいます。しかし、徳川家が将軍であっても豊臣の臣下であるとか、あるいは対等の立場だというのは可能ですから、そう言い切るのは間違いなのでございます。
茶々が怒ったのは、家康さまから秀忠の将軍宣下を祝いに、上洛しないかという打診があったからでございます。茶々は無理にと言うなら秀頼と心中するなどと物騒なことを口走ったということです。
ともかく、茶々には思い詰めると極端な言葉を吐くことがあったのは確かです。
ただし、このときに茶々が反対した理由を、秀頼が将軍秀忠に臣従することになるからだというのは、いかがなものでしょうか。
のちに二条城で家康さまと秀頼が会見したときも、家康さまのほうが官位が高いことに応じた儀礼上の配慮はありましたが、臣従といったものではありません。
仮にこのときに、秀頼が上洛しても、公家衆と将軍が会うときと同じで、官位の高い秀頼が秀忠の下に位置することにはならなかったはずです。千姫の父なのですから、少し柔軟にしてもよかったと今も思います。
むしろ、茶々が心配したのは、秀頼の身に何か起きるとか、そのまま京都とか伏見に留めおかれることだったのです。その後の茶々の行動を見てもわかることですが、茶々は秀頼の身に何か起こるとか、自分と引き離されるというのを極端に恐れたのです。
そのあたりは、前田のまつさまが江戸で人質にされ、とても大事にされていた利長さまが越中高岡で重病になっても帰国を許されなかったという無念を思えば、仕方ないことかもしれません。
いずれにせよ、家康さまも、秀頼に新将軍に挨拶のために上洛しろというのは、刺激が強すぎたと思われたのでしょう。秀頼を右大臣に昇任させ、六男の松平忠輝を大坂に派遣して、秀頼に拝謁させるなど慰撫(いぶ)につとめられました。
この年、江戸では江が次男を出産いたしました。それが国松で、のちの駿河大納言忠長です。竹千代を乳母のお福(春日局)に取られてしまったような形になっていた江は、利発なこの子を可愛がったのですが、それが悲劇を生むことになります。もちろん、このときには誰もそんなことは想像できませんでした。
また、同じ年には宇喜多秀家が八丈島に流されました。秀家は関ヶ原の戦いのあと薩摩に隠れておりました。島津と徳川の関係が安定したのを機会に出頭して久能山で赦免を請うていたのですが、遠島ということになりました。
このとき、2人の息子も八丈島に同行し、その子孫は八丈島に住み続けました。秀家の正室で私たちの養女である豪姫は、しばらく私の元におりましたが、慶長12年(1607年)に娘と一緒に金沢に移ることになりました。
秀家も豪姫も二度と会うことはできませんでしたが、2人とも長生きをし、豪姫の願いで前田家は八丈島に仕送りをしていたそうです。
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- イラスト:ウッケツハルコ







