秀吉の死後も京で人気があった豊臣家に対する家康の嫌がらせとは?

秀頼に英才教育を施す茶々
前田家は江戸時代を通じて、宇喜多家の子孫たちのために手当を送り届け、明治になって赦免されると、東京の板橋の下屋敷に呼び、さらには明治天皇から浦安の土地を下賜してもらい定住させました。
慶長12年(1607年)に、家康さまが将軍に就任され、さらに大御所になってからも住まれていた伏見城から駿府城に引っ越しされました。はじめは、三島あたりに新しい城を建てるという案もございましたが、既存の城の修築に落ち着きました。
家康さまは今川家の人質として長く駿府におられたのですから、故郷ということでは、岡崎などよりこちらなのです。それに、大好きな富士山が見えることも気に入られた理由のようです。
伏見から駿府に移られたのは、この頃になると、しだいに幕府の実務を江戸の秀忠さまに譲られるようになったので、連絡をとりやすくする必要が出たわけです。
この頃、茶々と秀頼は盛んに京都近辺の社寺の造営をしています。とくに、私が大坂へ下って援助を頼んだ北野天満宮の見事さは語り草になりました。家康さまから、それで財力を使うようにし向けられたのですが、このことで豊臣家の人気はますます高くなる結果になりましたから、家康さまにとっては忌々しいことでした。

茶々は、秀頼に対してすごい教育ママぶりを発揮しておりました。舟橋秀賢さまに政治・法律・軍学・漢籍・和歌などを教授させています。秀賢さまは清少納言を生んだ清原家(天武天皇の皇子で「日本書紀」を編纂した舎人親王の子孫)の流れをくみ、後陽成・後水尾天皇の侍読(家庭教師)でもあった、当時としては最高のインテリです。
武芸では、最後の近江守護だった六角義治さまに弓矢を教授させるなどしていました。当時としては最高の教育レベルだったと申せます。
心の底では通じていた秀吉と政宗
慶長13年(1608年)には、国松が生まれていたと聞きました。国松は秀頼が16歳のときの子どもです。この頃、秀頼は大人になっていたので、お側に女性を侍らせたところ妊娠したのです。国松は大坂夏の陣のあと、六条河原で斬首されました。8歳でした。
千姫がまだ子どもなので、秀頼が別の女性と接触されることそのものは構わないのですが、男子だけに扱いが難しく、とりあえず、京極初の領国である若狭で、身元を明かさずに里子に出したと聞いております。これを、大坂冬の陣を前に家康さまからの使者として初が大坂城に赴いたとき、荷物のなかに潜ませて連れて行ったのが仇になったということです。
この年の2月には、流行していた痘瘡に秀頼がかかりました。危ないとの噂も流れ、福島正則らが見舞いに訪れたのですが、なんとか無事に回復いたしました。
京では、前の年に北野天満宮の新社殿を造営した功徳で助かった、などと言う者もいたそうです。今も残る華麗で見事な権現づくりでございます。
この頃、秀頼は多くの社寺を造営しましたが、神社の多くはこの時代に流行した桃山風のものでございました。出雲大社は、この頃は杵築大社と呼ばれていましたが、やはり権現づくりで再建されました。現在の本殿は、延享元年(1744年)になって復古調でつくりなおされたものです。
この年には伊達政宗さまが松平姓を名乗られました。政宗さまは秀吉に反抗されたこともありますが、伊達者という言葉に象徴される派手好きで、気分的には互いに通じ合うことが多かったようでございます。その政宗さまが松平姓を名乗られたのも、時代の流れを感じさせました。

晩年になって、秀吉から拝領した短刀を将軍に献上してはどうかと幕府の老中に勧められたとき、政宗さまは「この刀は太閤殿下から私がいただいたと誰もが知っている。それを他人に渡しては恥だ」と言われ、周囲をハラハラさせたという逸話もございます。
慶長14年(1609年)には、兄の木下家定が亡くなりました。関ヶ原の戦いのときには中立を通し、戦後、姫路城主から備中足守城主に左遷されましたが生き延び、私の領地の管理も任せていました。
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- イラスト:ウッケツハルコ







