秀吉の死後も京で人気があった豊臣家に対する家康の嫌がらせとは?

家康に面目を潰された寧々の恨み節
もっとも信頼できる兄を失って、私がすっかり落胆したのは言うまでもありません。
ところが、遺領をめぐって騒動が持ち上がりました。はじめは、長男の勝俊と次男の利房が折半して相続することになっていたのですが、私は嫡男の勝俊にすべて継がせるように命じたのです。
それを聞いた家康さまは、自分に相談なくそんなことを命じた私を「耄碌(もうろく)している」と罵倒され、お家は取りつぶしになってしまったのです。大坂夏の陣のあとになって、利房に足守(現在の岡山)が改めて与えられ廃藩置県まで続くのですが、これで私は面目丸つぶれになってしまいました。
家康さまが私を大事にしていたという人もいますが、この一件を見ても、そんなことはないのです。
この年に、今度は秀頼の姫が生まれました。のちの天秀尼です。
また、禁裏では「猪熊事件」という、みっともないスキャンダルが発生しました。在原業平の生まれ代わりといわれたイケメン公家の猪熊教利は、2年前にも官女と密通事件を起こして追放されていたのですが、この年に烏丸光広や花山院忠長らと、広橋典侍など5人の官女と密会事件を起こしました。
後陽成天皇は関係者を厳罰に処するように望まれたのですが、帝の母である新上東門院は穏便に済ますように幕府に頼まれたので、教利のみが死罪になり、残りは追放で終わり、禁中に幕府が介入するきっかけとなりました。
慶長15年(1610年)になると、将軍秀忠と同じ母から生まれた尾張清洲城主の松平忠吉が亡くなりました。井伊直政の娘婿で関ケ原の戦いでも奮戦した、出来のいい若武者でした。
尾張は、家康さまの九男の義直さまが継ぎましたが、これを機会に名古屋城が築かれることになりました。海に近い古渡城なども候補になりましたが、家康さまは台地の上にあって防御が堅い那古屋を選ばれました。信長さまが若い頃にお住まいだった城です。
清洲は手狭で水攻めに弱いというのが理由でしたが、私にとっては生まれ故郷ですから、とても残念なことでした。
この城の築城には、豊臣恩顧の大名たちが天下普請としてあたらされ、福島正則など不満たらたらでした。しかし、加藤清正は「いやなら領地へ帰って謀反するしかあるまい」となだめたそうです。
また、この年には、越後の堀家が内紛を理由に改易され、伊達政宗さまの娘婿でもある家康さま六男の忠輝さまに与えられました。いわば、豊臣の大きな領地が徳川に移ったということでございます。
この頃、家康さまは方広寺大仏の再建を秀頼に勧められたのですが、これが豊臣滅亡の原因になるとは、思いも寄りませんでした。

※1 豊臣小吉秀勝 → 豊臣完子 → 九条道房 → 九条待姫 → 九条輔実 → 九条幸教 → 二条宗基 → 二条治孝 → 九条尚忠 → 九条道孝 → 貞明皇后 → 昭和天皇 → 上皇(明仁) → 今上天皇(徳仁)
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- イラスト:ウッケツハルコ







