美人でも関係なし! 凄惨な信長の仕打ち

毛利軍も積極的には救援に乗り出してくれないので、長男・村次さまのいた尼崎城に移りました。このとき、有岡城にほかの妻子などを残していたのですが「尼崎城と神戸の花隈城を明け渡せば妻子を助ける」と信長さまが言ったのに、村重さまは抵抗を続けられました。天正7年9月のことです。

▲有岡城跡 出典:PIXTA

そこで、信長さまは主だった36人を京の市中を引き回し、そして六条河原で斬られたのです。このなかに、荒木さまの奥方で「だし」という変わった名前の方もおられ、たいへんな美人だったので京の人々の哀れを誘ったそうでございます。大河ドラマ『軍師官兵衛』では、桐谷美玲さんが演じていました。

しかも、家来たちの家族は何百人も小屋に閉じ込めて焼き殺してしまわれました。こういうやり方は珍しかったので、人々は震え上がりましたし、私たちも聞いてショックでございました。

ひとつの理由は、石山本願寺がしぶとく抵抗し、信長さまも人生50年の時代では老境に入ってこられたなかで、元気なうちに信忠さまにしっかりした形で天下を引き渡したい、そのためには、以前のように時間稼ぎして抵抗する敵に長く構いたくない、という気分になっておられたのかもしれません。

そして、村重さまは、待っていても毛利の援軍は来そうにもないので、毛利氏の備後に逃げ出されました。しかし、のちの秀吉の時代になって、堺、ついで京に出てきて、茶人として名声を築かれました。千利休とも親交があったといいます。また、秀吉のお伽衆にも加えられました。

話は戻り、ちょうど、荒木村重さまが最後の抵抗をしておられた天正7年の8月には、備前の宇喜多直家さまが、ついに織田方に付きたいという申し出をされてこられました。

もともとは、主君の浦上家と対立して毛利方について備前を統一されたわけですが、2年ほど前から、秀吉ともやりとりをしていました。このときに活躍したのは、堺出身の商人である小西隆佐さま、その子で後に肥後宇土城主でキリシタンとしても知られる行長さまです。

ただ、寝返るとなれば毛利方からの復讐も受けますから、毛利にその力はないというタイミングを計っておられたのでしょう。秀吉はこの報告を持って、勇んで安土の信長さまのもとに報告に行ったのですが、信長さまは「勝手にそんな大事な和議をまとめるな」とご機嫌ななめで、秀吉を追い返してしまいました。

しかし、このあたりは秀吉にとって、まったく計算外でもなかったわけで、しばらくすると、信長さまからお許しが出ました。信長さまは、「和議をまとめたこと」は認めるが、秀吉の勝手にした約束を追認しただけだ、と言えるようにしておきたかったのかもしれません。

右腕だった佐久間信盛も追放してしまう信長

信長さまは、秀吉を毛利攻めの司令官にしましたが、それとは別に、いろいろな交渉もされていました。九州の大友宗麟さまには、もともと母上が大内義隆さまの姉なので、大友氏の家督を自分が継いでいると主張されていたおり、防長二国を攻め取ったら差し上げると言った約束もされていました。

また、毛利さまや足利義昭さまとも独自のルートで交渉されて、義昭さまを西国の公方さまということでどうだ、といったことも話にでていたようでございます。そうなると、宇喜多直家さまを犠牲にせざるをえないこともあるわけです。その意味でも秀吉の独断ということにしておきたかったのかもしれません。

尼子さまのときも、秀吉は助けたかったのに、信長さまの命令で見捨てさせられたわけで、秀吉もつらい思いを何度もしています。

しかし、ともかくも荒木さまは片付けられ、宇喜多さまも信長さまの側につき、さらには、あの頑強に抵抗していた石山本願寺も、帝の斡旋をお願いして退去することになりました。しかし、三木城の抵抗はその間も続いておりました。

丹波では天正7年(1579年)の6月、八上城の波多野秀治さまが、明智光秀さまに降参し安土に送られました。光秀さまが助命を約束していたのに、信長さまはこれを磔にされました。

こうして、ようやく畿内とその周辺からは信長さまに刃向かう者はいなくなった一方、信長さまが、家来たちや同盟者に対しても横着になってくる、ということも目立つようになりました。

さらに、石山本願寺が退去したあとの、翌天正8年(1580年)8月には、本願寺攻めの司令官だった佐久間信盛さまが追放される事件が起きました。織田家家臣でも筆頭格で、秀吉の大先輩に当たる方ですから、私もびっくりいたしました。

 8月2日に信盛さまは、 顕如さまの子で最後まで抵抗していた教如さまの本願寺退去を検視する勅使として、松井友閑と共に再び同行されました。ところが、25日、信長さまから19ヶ条の折檻状をもらったのでございます。内容を簡単にまとめると、こういうことです。

石山本願寺が手強いので、戦も調略も積極的にせず、天王寺城に籠もっていたら、相手は坊主だからそのうちに出て行くだろうと怠けていた。

光秀や秀吉は良くやっている。勝家もそれを聞いて奮起し、加賀へ侵攻し平定した。戦いで成果がないならせめて、謀略などをこらし、信長に意見を聞きに来るべきなのに、五年間それすらない。

信盛には各地の武将を与力につけたが活かしていない。家康の伯父の水野信元が武田に通じているというので成敗したのち、刈谷城をやったのに、水野の旧臣を使わずに追放し、新規に召し抱えもせずに知行を直轄とし、金銀を貯めているなどもってのほか。山城の山崎でも、信長が調略しておいた者を追放して使わず同じことだ。家来を増やさず、けちくさく溜め込むことばかり考えるから戦功を上げられなかった。

朝倉攻めの刀根坂の戦いの跡の軍議で、怠惰をしかったところ、弁解だけして席を蹴って立ったので、自分は面目を失った。

三方ヶ原へ援軍で行ったときには、敗戦は仕方ないとしても、兄弟・身内やしかるべき譜代衆が討死でもしていればともかく、一人も死者をだしていないうえに、一緒に行った平手汎秀を見殺しにした。

どこかの敵をたいらげ、帰参するか、どこかで討死するしかない。高野山にでもしばらく籠もっておれ。

内容はもっともと言えば、そうなのですが、引退させるくらいならともかくも、追放までするのは酷すぎる、秀吉も今はいいが将来は大丈夫かと心配になりました。

のちに、明智光秀さまが謀反をされたのも同じ気持ちからだろうと思うのです。信盛さまは、結局、翌年に熊野のほうの温泉で療養しているうちに亡くなりました。嫡子の信栄さまは、本能寺の変の年に岐阜の信忠さまの家臣として取り立てられ、信雄さまにお仕えされたり、秀吉のお伽衆とし、子孫は旗本となられました。

▲「秀吉が悩まれた信長さまの指示ってどんなでしょう?」 イラスト:ウッケツハルコ
※島根県立古代出雲歴史博物館には、古代、慶長期、寛文期(現状)の三大の神殿の模型がある。

※追放されたあとの佐久間信盛がどうなったのか、確実なところは不明である。熊野方面で死んだらしいが、子の信栄が2年後に赦免されているところを見ても、それほど厳しく糾弾されたのではなく、古参役員が退職金なしにクビになったといったところだろうか。江戸時代の旗本には、佐久間姓の者が多くおり、ほとんどが彼らの一族のようだ。軍学者である松代藩の佐久間象山も一族だ。

※佐久間信盛と一緒に追放されたなかには、林貞秀(佐渡守。信長が子どものときから仕え、筆頭格の家臣だった。昔、弟の信行を跡継ぎにしようという陰謀に加担したのが理由だった)、安藤守就(西美濃三人衆の一人)、丹羽氏勝(丹羽長秀さまとは関係ない)がいる。