25歳で「代官山オステリア ルッカ」をオープンさせ、50歳を過ぎて始めたYouTube「桝谷のSimple is best」が話題の人気イタリアンシェフ・桝谷周一郎氏が、下積み時代とバブルに沸く東京の思い出を語る。

▲桝谷周一郎【WANI BOOKS-“NewsCrunch”-INTERVIEW】

学がないなら料理で女を落とせ

僕が生まれ育ったのは神楽坂。といっても、中心部から外れた下町で、昔ながらの長屋住まいでした。

父親は飲食事業をしていて、ほとんど家にいませんでした。だから、子どもでも家事をするのが当たり前の家に育ちました。

曽祖母は、本も出している有名な栄養士でした。祖父も飲食関係の仕事でしたから、料理と縁があったんでしょうね。家は本当に貧乏だったけど、母親は絶対に料理の手を抜かなかったし、祖父は銀座のレストランでアサリのスパゲティをよく食べさせてくれました。僕が料理に興味を持つことを、みんなが歓迎してくれる雰囲気はありました。

小学校4年生のとき、料理研究家の土井勝さんの料理番組を見て、見よう見まねで料理を作ったのが、僕の料理人としてもスタートです。

テレビで見たままのレシピで作った唐揚げと、ちくわのサラダ。親の料理をずっと近くで見てたから、手順はわかっていたし、あまり不安はありませんでしたね。

油を温めて、衣をつけた唐揚げを揚げて、そのあいだに、ちくわサラダも作りました。完成したときはうれしかったな。

当時は近所付き合いが当たり前だったので、隣のおじさんに「よかったら食べて」って唐揚げを持って行ったんです。誰かに見せたかったんでしょうね。おじさんはひとくち食べて、にっこり笑って、僕の頭を撫でてくれたんです。

「周ぼう、将来はコックさんだな」

その言葉がすごく心に刺さってね。僕は勉強もできなかったし、他人に褒められたことがあまりなかったから、本当にうれしかったんです。

中学を卒業して、地方の高校に入ったのは、都内だと入れる偏差値の高校がなかったから。そりゃイヤでしたよ。しかたなく東京を離れたものの、そこが軍隊みたいに厳しい学校で、すぐに脱走しちゃいました(笑)。

実家に戻ってフラフラしてる僕を見て、姉が心配して「このままだとチンピラになっちゃう」って紹介してくれたレストランで働くことになりました。そうして僕の料理人としての人生が始まりました。

今はなくなってしまったけど、神楽坂にあった「ボルボ」は、いわゆる洋食屋さんでしたが、有名ホテルや三國清三さんの「オテル・ド・ミクニ」にいたシェフも通う、それは華やかな店でした。

そして、料理人のカッコよさを知ったのもこの頃。店のシェフが口説きたい女の子を店に招いて、腕によりをかけてデザートを作っていたんです。いつも増して真剣な顔の先輩をじっと見てたら、僕を見てこう言いました。

「周ちゃん、お前は学歴がないんだから、料理で女を落とせよ」