茶々「生け捕りできなかったのかしら…」

山城というのは、だいたい、麓から100メートル以上標高が高いところに本丸があるような城を指すことが多いようでございます。

本当に砦みたいなものもございますが、立派な山城として有名なところでは、近江源氏の六角家が居城とされた観音寺山城をはじめ、岐阜城、やはり美濃の岩村城、大和の高取城、備中の松山城なども名城と言われております。

小谷城は、越前や奥美濃とつながる尾根の稜線に築かれてございます。居館はもともとは麓の清水谷にございましたが、戦乱が激しくなって、山上に女たちも上がって住むようになりました。

▲小谷城跡地 出典:PIXTA

落城のきっかけは、木下藤吉郎、いえ羽柴秀吉が、清水谷から密かに飲料水を得るために谷へ降るように設けられた「水手口」を上って、内応する者の手引きで本丸の背後の京極丸を占領したことにございます。

このことで、本丸より奧にあった小丸の浅井久政さまと、本丸の長政さまの連絡を遮断できました。秀吉から聞いたところでは、8月28日にはご隠居の久政さまが自刃されました。

そして、信長さま自身が兵を率いて本丸を攻撃され、9月1日には長政さまも本丸に隣接した赤尾丸で自刃されたと聞いております。

このあたりの事情は、信長さまとは離れたところにいたので、秀吉もはっきりしないようでございますが、久政さまの自害のあとは激しい戦闘も止み、信長さまも投降するようにと長政さまにお薦めになったともいいます。

重臣の赤尾清綱さまが斬られずに生け捕りにされていることもあり、なにか話し合いがあったようでもあり、のちに茶々たちも「あのときになんとかならなかったか」とこぼしておりました。

さすがの信長も妹とは顔を合わせづらい

茶々・初・江の三姉妹と、お市さまがどうやって脱出したのかは、年長の茶々でも数えで5歳でございましたから記憶がないようです。早くから脱出して、尼寺にいたということをいう人もおりますが、お市の方の嫁入りのとき織田からついてきた藤掛三河守永勝という者が、信長さまのところに連れて行ったと聞いております。

▲三姉妹像(茶々、初、江) 出典:PIXTA

嫡男の万福丸は逃がされたのですが、捕らえられたのちには、信長さまの命令で、秀吉が串刺しにする仕事をやらされました。

長政さまの母は、伊香郡の井口家から来ておりましたが、関ヶ原で指を一本ずつ切り落とされて殺されました。

お市さまたちは、同母兄弟である伊勢上野城の織田信包さまのところにお世話になることになりました。信長さまとしても、お市さまと毎日顔を合わせるのは気まずかったということもあったのでございましょう。

信包さまは、信長さまの兄弟の中でもたいへん優れた方で、信頼も厚く、本能寺の変のころでも、嫡男の信忠さま、次男の信雄さまについで第3位の地位におられ、三男の信孝さまより上位でございました。大坂冬の陣の少し前まで健在で、茶々のよき相談相手でした。

この戦いののち、秀吉は、信長さまから近江のうち浅井領だった、浅井・坂田・伊香の三郡の領主とされました。といっても、坂田郡のうち佐和山城は丹羽長秀さまがおられましたし、山本山城の阿閉貞征さまのように、浅井氏から信長さまに投降してきて領地を安堵された武将や寺社もございましたから、この三郡を本当に自由にできたわけではありません。

もっとも、それは浅井氏だって国衆の連合を束ねていただけですし、織田やのちの豊臣のもとでのほかの大名たちでも同じです。たとえば、丹羽長秀さまが若狭の支配を任されたといっても、守護だった武田元明さまなど織田方についた武将に領地を安堵されておりますし、丹羽さまの与力として付けられた織田家臣の取り分もそこから出さねばならないのですから、本当の意味での大名の直轄地は数分の一なのでございます。

また、それらの武士たちのなかには、支配のやりかたについては、大名の指示に従う立場の者もおれば、勝手支配に任さざるをえない場合もございます。これは江戸時代になってもそうで、たとえば、徳島藩では筆頭家老の稲田家は、先祖の稲田直元さまが蜂須賀小六(正勝)さまの義兄弟の契りを結んだという関係です。

もともと稲田家は、岩倉の織田信安さまの家老でしたが、信長との内通を疑われて父の貞佑さまが切腹させられ、直元さまは父の友人の小六さまに預けられました。大きくなって小六さまとともに秀吉の与力となり、小六さまの子の家政が徳島城主となったときに、家老として1万4千石を脇町や洲本で領することになりました。

徳島藩でも、稲田家の領地は自治が認められておりましたのですが、明治維新のときに、徳川御三家の家老などと同じように独立した大名として認められたいと起きた運動が、蜂須賀の直臣と稲田家中が武力衝突した稲田騒動でございます。